コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その2】   Text by 木全公彦
(承前)
三國連太郎は、自らのプロダクションによる自主製作映画『台風』を製作・監督するにあたって、他社出演も認めるという東映の専属契約を本数契約に変更する。

売れっ子俳優の監督業
しかしすんなりと東映が契約変更を了承したわけではない。東映側は専属俳優である三國が勝手に独立プロを作ることを認めておらず、三國の日本プロ設立と『台風』の製作・監督を行うことについては寝耳に水だった。
〈来年8月まで東映と専属契約があるのを知りながら、『台風』の監督をやると勝手に公表し、怒る東映首脳部を前に、ときには涙を流したり、「死ぬよりほか仕方がない」とおどしたりしてともかくも演出のOKをとったあたりは、どこまで役者で、どこまでが本人か見分けがたい不思議な人物といえる。「あの男は異常性格だよ。いうことをまともに聞いていたら、こっちまで気が変になる」とは某映画会社重役の三國評だが、そうはいってもその重役も彼の厚みのある演技力は高く評価して“貴重なる役者”としているのだから面白い。〉(「スポーツニッポン」1964年7月22日付)

こうして三國はちゃっかりと東映とは専属契約から本数契約に切り替えることに成功するのだからさすがである。だが、『台風』の脚本の仕上がりが遅れたことから、当初よりクランクイン予定日が延びたため、三國が俳優として出演する東映作品『越後つついし親不知』(64年、今井正監督)はなんとか『台風』の撮影にはカブらずに済んだものの、すでに3月22日から撮影が始まっていた『怪談』(65年、小林正樹監督)の撮影は延々続いており、『狼と豚と人間』(64年、深作欣二監督)と『飢餓海峡』(65年、内田吐夢監督)も控えていて、これらの作品とは掛け持ちになってしまった。ほかにも今井正監督で企画中の『大奥(秘)物語』への出演オファーもあった。このうち『大奥(秘)物語』は、脚本をめぐるトラブルから企画が延期され、今井正が降板し、中島貞夫が監督を引き継ぐことになり、三國の出演はなくなるが、三國のスケジュールはビッシリだった。五社協定をものともせず、横紙破りを繰り返してきた映画界きっての問題児も、今やその得がたい独特の、何かが憑依したような怪物的な演技で名匠・巨匠たちの間で引っ張りだこになっていたのだ。

スケジュール調整に関して、『怪談』は先に第2話「雪女」を撮り終え、三國が出演する第1話「黒髪」の撮影に取りかかるが、本格的にカメラが回る前に三國が『台風』の撮影のため、現場を後にしてしまったため、先に大掛かりな第3話『耳無し芳一』を撮影することになった。

そんな中、三國連太郎初監督作品『台風』は、1964年7月19日に木曽福島のオープン・セットでクランクインした。当初の予定では7月22日にクランクインするはずだったが、雨で近くの川が増水したため、急遽クランクインの日程を早めたのだった。