コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その1】   Text by 木全公彦
二転三転した挙句
6月に脚本がようやく完成した。その内容を3紙から紹介する。
〈『台風』の構想と、伊勢湾台風に襲われた中部地方、という舞台は企画当初から同じだが、物語は名古屋市内から水害で孤立した村の物語、とかなり変わっている。平和で静かな村、その村人たちはのんびりした、のどかな毎日を送っていたが昭和34年9月の伊勢湾台風に襲われ、村がメチャメチャになると同時に、村人たちも憎み合い、キズつけ合う。山林の所有権争いがクライマックス・シーンで村が二派に分かれて戦争さわぎに発展する。山本学と佐々木愛は親の許した婚約者だが戦争騒ぎで将来の幸福を犠牲にする。また、山本に言い寄る娘に金井克子が扮する予定だ。〉(「中日スポーツ」1964年6月15日付)。
別の新聞では〈物語は――木曽福島の山村を襲った台風のなかで、村人たちが自分たちの欲望をむきだしにうごく。伊勢湾台風のニュース映画もふんだんに入れ、山村の入会権、離村などの問題にもふれる。〉(「朝日新聞」1964年6月30日付夕刊)となっており、また別の新聞では〈日通の従業員15万人、トラック協会所属の従業員を300人対象に前売りを予定しており、三國の出演する愛の輸送便トラックの場面をさらにつけ加えねば……と『恐怖の報酬』的なドラマの挿入も考えている。〉(「内外タイムス」1964年7月8日付)と、3紙を読み比べると、いったいどういう話なのか、さっぱりわからない。わかるのは、テーマもストーリーも舞台も当初の構想とはまるで違うものになっていることだけだ。この時点で名古屋ロケもなくなって、長野県の木曽福島でロケーションされることに変更になっているし、このような変更はクランクイン後も、三國の思いつきと気まぐれで日常茶飯事化し、どんどん暴走していくことになる。まあ、カツシンやタケシの場合もそうだけど、俳優が監督をすると、このような傾向があることは確かなようだ。

山本学の相手役として発表された佐々木愛と金井克子の名は、7月中旬になると、どこにもなくなっており、代わって新劇の新人、岩本多代(劇団・新人会)と志村たえ子(俳優座養成所)が抜擢された。
〈岩本は日活、松竹などの映画には数本出演した経歴はあるが、主役はもちろん今度がはじめて。台本を手にして「だいじょうぶかしら。こわいみたい」と胸をワクワクさせている。いわゆる日本型美人タイプで、テレビ、映画でも清純な娘役がほとんど。『台風』で山本学の恋人役を演じ村のおとなたちの欲ばりで現実的考え方に反抗する。一方の志村たえ子は、もと東映ニューフェイス、現在は俳優養成所で芝居の勉強にはげんでいるが、東映に縁の深い三國連太郎に見出されたもの。「ふたりのヒロインは対照的であってほしいんです。清純派とドライ派と、そういう観点でふたりを選びました」と監督・三國連太郎は言っている。(略)撮影はオール・ロケ。はじめ伊勢湾台風の記録を忠実に再現するため、名古屋市内に大オープン・セットを組んで撮影の予定だったが、台本の大幅な変更からロケ地も変えた。現場は中央線木曽福島駅から車で1時間半入った山中の部落。テーマも、日本通運トラックの“愛の輸送”から台風によって引き起こされる人間同士の悲劇となった。〉(「中日スポーツ」1964年7月15日付)

ちなみに脚本作りから降板した植草圭之助のボツになった脚本は、秋の芸術祭参加テレビ・ドキュメンタリー番組『失われた時――伊勢湾台風』(東海テレビ制作)の底本として使われ、岡田晋・植草圭之助共作として1964年10月7日に放送された。〈この作品のどこがいけないのか僕にはわからない。(略)私としては自信をもっている。意地にかけても映画『台風』には負けたくない。〉(「日刊スポーツ」1964年10月7日付)。まあ、そりゃそうだろなあ。

こうして誰が見てもすでに大混乱を予期させる映画『台風』は、1964年7月19日に木曽福島のオープン・セットでクランクインした。

(続く)