コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その1】   Text by 木全公彦
三國連太郎が監督に
当初、監督未定で進められていた『台風』の監督を三國自身が務めると発表されたのは、1964年3月17日の記者会見による。
〈正直いってきのうまでは演出をやるか、どうか迷っていました。しかし配給ルートの問題で東映の大川社長と会って話しているうちにハッキリ自分でやると決心がつきました。こういうチャンスでないと自我を主張できる機会も少ないし、巨匠連も応援してくれることになっていますから、ひとりでやる決心がついたのです。〉(「日刊スポーツ」1964年3月18日付)。
三國も日通のトラック運転手の役で出演することが決まった。しかしまだこの段階で脚本は第5稿を重ね、まだ決定稿には至らない。プロデューサーである三國がなかなか納得しないのだった。

でも、三國連太郎は上機嫌だった。マスコミは三國の初プロデュースで初監督作品の『台風』を大々的に報じていたからである。ちょうどこのとき、丹波哲郎は「サムライ・プロ」、内田良平は「狼プロ」を立ち上げ、自らの企画した作品をプロデュース、または監督すると発表し、石原プロ、勝プロ、三船プロに続く俳優プロダクションが大いに注目をされていた。丹波の「サムライ・プロ」では『三匹の侍』(64年、五社英雄監督)に引き続き、『コレラの城』(64年)を自らの監督(菊池靖監督と共同)で製作を開始し、内田の「狼プロ」では鈴鹿サーキットを舞台にしたオートレースを描く予定が規模拡大でイギリスのマン島のオートレースに変更した『世界を駆ける男』企画進行中だった(結局、製作されず)。そんな中、三國は早くも次回作『癌』を準備中だと発表する。だが、『台風』の脚本の方は、いくら改稿しても三國がOKを出さないのに嫌気が差した植草圭一郎は降板し、アシスタントであった春田耕三がひとりで引き継ぐことになった。

4月にはクランクインとしていた当初の予定から遅れたものの、5月になるとキャスティングもじょじょに明らかになる。
〈「ホラ吹き連ちゃんを“男”にしてやろう」と日ごろ三國と親しい俳優たちが一斉に立ち上がった。この作品にすでに出演決定している顔ぶれだけでも西村晃、殿山泰司、小沢昭一、望月優子、松村達雄、花沢徳衛、加藤嘉、織田政雄と日本の名だたるバイプレーヤーを一堂に集めた感じの俳優たちが“協力をおしまない”と誓っている。(略)出演者のひとり小沢昭一は「決して友情出演ではありません」とキッパリいう。「友情出演というのは“出てくれないか”“うん、出よう”という慣れ合いが多いんです。しかし、僕はむしろ自発的に出ようと決心したんですね。それは“男、意気に感じた”という気持ちと“よい仕事をしたい”という欲望の両方からです。あれだけの顔ぶれが出るんですから、画面では演技の火花を散らす真剣勝負ですよ。とても友情出演なんていう甘い気分ではありません」。この小沢の気持ちは、各出演者とも一致した意見だ。(略)三國自身は「みなさん、まるで自分のことのように心配してくれます。友情をこんなに身近に感じたことはありませんでした。そのせめてもの恩返しは、よい作品を作ることだけです」と感激している。〉(「日刊スポーツ」1964年5月27日付)

7月になってようやく主役が山本学に決定する。そのほかに山本をめぐる二人の女性に、文化座の佐々木愛と金井克子が内定し、木暮実千代が出演することも内定する。スタッフも、撮影・前田実(『箱根風雲録』『真空地帯』)、録音・岡崎三千雄(『ひめゆりの塔』『日の果て』)、美術・平川透徹(『真空地帯』『にごりえ』)、照明・平田光治(『また逢う日まで』『ひめゆりの塔』)らが決定する。