コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その1】   Text by 木全公彦
『台風』騒動の発端
『台風』は、1959年9月26日、27日に紀伊半島から東海地方を襲って甚大な被害を出した伊勢湾台風に題材を求めている。東映の大川社長自ら名付け親となった名古屋出身の大川恵子は、この地元の未曽有の災害に心を痛めているというコメントを出したが、当時、東映と専属契約下のある三國連太郎が、東映の配給を頼りにして、伊勢湾台風を題材にした『台風』の製作に乗り出すのもなにかの縁だろう。1964年1月の段階では監督は未定だが、シナリオは植草圭之助と春田耕三が担当することが決まり、1963年の年末から数度にわたり、名古屋を訪れ、被災地を見学したり、延べ300人にも災害に遭った人々に取材したり、記録フィルムの試写をしたりして、シナリオ・ハンティングを行った。

〈シナリオは植草圭之助さんが書いています。1月いっぱいに準備稿ができあがります。撮影開始は4月ですが、すでに望月優子さん、西村晃さん、織田政雄さん、加藤嘉さん、ほかに劇団関係者の人など10人に出演契約もすませました。(略)この作品のテーマは、題名どおり“台風”なんですが、日本人の生活にとって、台風は切っても切れない深いつながりがあります。台風によって歴史もたびたび変わっているほどなんです。最近では伊勢湾台風を機会に愛知県の津島市は従来の農村から一変して興業都市に変貌してしまった。そんな台風下の人間、とくにギリギリの極限を描いてみたい〉(「日刊スポーツ」1964年1月13日付)、と三國連太郎は語った。

それから2週間ばかり経ってからの「日刊スポーツ」には、1月21日に日本プロの沢野祐吉社長と名古屋を訪れ、シナハン中だった植草・春田と合流した三國自身の署名記事が掲載されている。映画の詳しい内容は不明だが、なんとなく全体像はぼんやりと分かる。なにより記事からは三國の並々ならぬ意気込みが伝わってくる。
〈さっそく杉戸市長(伊勢湾台風当時、災害対策副本部長)に会い、「台風の無限の恐怖を、もう一度国民の胸に訴え、その恐怖を乗り越えて立ち上がった人間の強さをもうたいあげてください」との激励を受けた。ロケ地として被害の大きかった港区空見町の通称十一号干拓地と、汐止町の十二号干拓地の大きな敷地の一部を、市が無償で貸してくれるという。すぐに美術スタッフに見せて、2月下旬から大がかりなロケ・セットを作ろう。(略)オープン・セットは最後に海水をナダレ込ませて被災状況を再現させよう。台風のかわりにする20キロゼネレーター(自家発電機)5台は自衛隊の小牧飛行場に手配済みだ。災害の記録フィルムも見た。とうてい特撮では出せない迫力。台風シーンのため、お借りすることにした。(略)人間の本性である愛が、あの生と死の境に立たされたとき、どう変貌するのか? 恋愛、肉親愛、人間愛など、被災地に拾ったエピソードを資料にしてドラマを組み立てよう。どこまで作品で描いて行けるかと、少々不安にもなったが、ファイトもわいてきた。〉(「日刊スポーツ」1964年1月27日付)

名古屋市だけではなく日通も〈運輸業と輸送の使命、これが台風との結びつきで共鳴〉(「中日スポーツ」1964年2月10日付)し、全面的に映画製作に協力することになった。製作費の7千万円のうち70パーセントは日通が宣伝費として融通することになった。