コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その1】   Text by 木全公彦
少し前のことだが、週刊誌に三國連太郎が老人福祉施設に入院していたという記事が載った。なにしろ高齢であるから、そのようなこともあるかもしれない。残念なのはもう三國さんに取材をする機会がたぶん永遠に失われてしまったということで、取材の約束をし、準備をしていた者としては残念な思いにとらわれている。

幻の監督デビュー作
佐野眞一の「怪優伝」(講談社)が出版されたのが2011年11月。あとがきによれば、もっと早く出版されるはずだったのだが、東日本大震災の影響で出版が大幅に遅れたのだという。三國さんには2008年7月に紀伊國屋書店が発売する「DVD-BOX 大島渚1」所収の『飼育』(61年、大島渚監督)について取材した折、「改めて伺いたいことがあるので、またご連絡します」と申し上げ、その内容を伝えた上で再度の取材をお願いしていたのだった。だが、どうせ活字になるような記事でもないし、とスネた気持ちでダラダラと取材のための下調べを続けていたら、あれやこれやあって先延ばしになってしまい、やっと目鼻がついたからということで、取材を申し込もうと思ったら、すでに体調を崩されていて、取材は受け付けていないということだった。つくづく自分の怠惰を悔やんだものである。三國さんに伺いたかったことというのは、三國さんの初監督作品『台風』についてのことだった。

三國連太郎の監督作品といえば、カンヌ映画祭審査委員特別賞を受賞した『親鸞 白い道』(87年)が知られているが、最初の監督作は自らプロダクションを立ち上げて製作・監督・出演をした『台風』という作品だった。キネマ旬報の「日本映画俳優全集・男優篇」にもそのことは書かれているし、竹中労の「芸能人別帳」(ちくま文庫)に収録された「放浪魔人・三國連太郎」にもその作品についての記述がある。にもかかわらず、今ではこの映画の存在すら知らない人が多い。

 数年前、NHKで、三國連太郎が1972年に自らのプロダクションで、製作・監督・脚本・主演の一人四役で、パキスタン、アフガニスタンの砂漠でロケーションして未完のまま終わった『岸辺なき河』を、最近になってなにを思ったのか、完成させようとしている姿に密着取材した番組を放映していたことがある。その中でも『台風』への言及はなかった。「怪優伝」では佐野眞一は『岸辺なき河』には言及しているが、『台風』には一言も触れていない。

誤解のないように最初に書いておきたいが、現在でこそ『台風』は忘れられている映画だが、決して同時代において知られざる映画ではなかった。むしろ製作前から連日のようにスポーツ紙や週刊誌を賑わせた話題の映画だった。かといって、知る人ぞ知るなんていう名作では決してない。そもそもちゃんと見た人がいるだろうか。ほとんどいないんじゃないだろうか。映画雑誌にはまともな記録さえ残っていない。それを不当だと言いたいのではない。まあ、そんなものだろうというのが正直なところである。また一部の記録に、未完であるとかお蔵入り作品とかという記述もあるが、それも正確さを欠いている。そこでできるだけ当時の記事に沿って、この幻の作品について記述していこうというのが、今回のコラムの主旨である。