コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 【新藤兼人が語る三隅研次】   Text by 木全公彦
三隅研次と『斬る』
新藤  三隅君が監督になったとき、確かデビュー作だったか、2作目だったかを僕がシナリオを書いたと思うけど……。

――新藤さんが最初に三隅さんの脚本を書かれたのは『斬る』(62年)が最初です。

新藤  ああ、そうですか。『斬る』ね。僕は『斬る』も書いたけど、もっと前になかった? 三隅君の監督デビュー作は?

――『丹下左膳 こけ猿の壺』(54年)です。マキノ雅弘さんが2本監督なさった3部作の完結編で、もうだいぶ大河内伝次郎も年をとっていて。

新藤  それはなかなか不幸なデビューだね。マキノさんは達者だから、そのあとを継いで続きを新人が撮るというのは大変だったんじゃないでしょうか。それに『丹下左膳』は難しい題材ですよ、おいそれと新人監督が撮れるような題材じゃない。よく撮ったね。で、2作目は?

――『七つの顔の銀次』(55年)。川口松太郎さんの原作を犬塚稔さんが脚色して、長谷川一夫の現代劇ですね。スリの話だったかな。それから『月を斬る影法師』(55年)で、これは八尋不二さんの脚本。4本目が『かんかん虫は唄う』(55年)。

新藤   なんか河内ものなかったですか。僕はデビューまもない三隅君に河内ものの脚本を書いた覚えがある。

――う~ん、三隅さんにはデビューしてまもないころはおろか亡くなるまで河内ものは監督していないように思うんですが。もしかしたら流れた企画とかですかね?

新藤  いや、僕は撮影を見に行った覚えがあるんだ。じゃ、あれは別の監督か(笑)。

――新藤さんが脚本を書いて、吉村公三郎さんが大映で監督された『源氏物語』(51年)や『西陣の姉妹』(52年)に三隅さんはチーフ助監督として就いていらしたから、そのときのどなたかの現場のことかもしれません。

新藤  ああ、そうか。三隅君は『愛妻物語』のときの印象がとってもよかったから、吉村君も助監督をお願いしてやってもらったんでしょう。

――したがって新藤さんが最初に三隅さんの脚本を書かれたのは『斬る』になります。

新藤  そうですか。『斬る』は何年ですか。

――1962年、昭和37年です。

新藤  じゃ、ずいぶんあとですね。僕らが大映との契約が切れて、独立プロで作品を作りだして、『裸の島』(60年)がモスクワで賞をもらって帰ってきたからのことだね。『斬る』は大映から注文がきて書いた作品です。原作は柴田錬三郎か。

――そうです。最初から三隅さんが監督だということで依頼がきたんですか。

新藤  そうです。それでちょっとだけ打ち合わせをして、書きあげたシナリオを渡しただけ。市川雷蔵が主演でしたね。完成した作品を見てびっくりしました。これは自分でもうまくいったと思いましたし、みなさんにも誉められた。三隅君にとっても代表作になりましたね。なにか時代劇に新風を吹き込んだというような新鮮な驚きがありました。時代劇というのは殺陣ですね。それをどのようにうまく見せるかはカット割りなんです。実に鮮やかでした。三隅君は先ほども言いましたけど、あまり大声を出したりするような人でもないし、おとなしい人なんです。それがよく切れる刀で人をズバッと斬るような迫力がありました。河原で人を斬るところなんか斬られた人が真っ二つになって、しばらくして左右に二つになって倒れていくでしょう。あれはすごかった。

――その場面は予告編と実際の本編とではサイズが違います。 予告編ではもっとカメラが寄っていた。

新藤  そうですか。ラストも鮮やかでした。悲壮美みたいなものがあり、見事な幕切れだと思いました。