コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 【新藤兼人が語る三隅研次】   Text by 木全公彦
新藤兼人監督が亡くなった。この人は寿命というものとは無縁に延々「最後の作品」を撮り続けるものと思っていたが、百歳にしてついに天寿を全うされた。謹んでご冥福をお祈りしたい。

以下は三隅研次関係者にわたしが断続的にインタビューした未発表の文章のうち、新藤兼人監督に取材した部分である。

『愛妻物語』の助監督として
―― 最初は『愛妻物語』(51年)ですか。

新藤  そうです。『愛妻物語』は僕の第1回監督作品ですけれども、大映京都の撮影所で撮影しまして、そのときに僕に就いた助監督のひとりが三隅君だった。三隅君はセカンド。チーフは天野信君で、もう亡くなったと思いますね。僕は『愛妻物語』の台本に画コンテを全部書き込んでいたんですが、それを三隅君が全部ストーリーボードに描き直してくれたんです。たいがいの監督は撮影の前にコンテを作るんですが、画コンテとしてファーストシーンからラストシーンまで全部の場面を事前に準備して撮影に臨んだという映画は珍しいんじゃないですか。それは台本とは別に別冊としてガリ版でプリントして、スタッフやキャストに配りました。三隅君は絵がうまかった。美術学校を出ていたんでしょう?

――美術学校ではなく、立命館高商部ですね。小さいときから絵は好きだったみたいですが。

新藤  へえ、そうなの。とってもうまかったなあ。僕は自分がメモ代わりに描いた画コンテを三隅君がちゃんと描き直してくれたので、その通りに撮影をしました。このホンは書いてから撮影まで長い間温めていたものだから、もう僕の頭の中でイメージが固まっていたから、それでよかったんです。『愛妻物語』のときの三隅君の印象はそのぐらいかなあ。いい助監督に就いてもらって仕事がスムースに進んだという記憶しかないですねえ。僕も監督するのは最初だから、重ちゃん(宇野重吉)やスタッフに1カット撮っては「これでいいかな」と確認しながら撮影していた。それで三隅君にも意見を聞いたりした記憶はあります。あのストーリーボードはちゃんととっておけばよかった。どっかにいっちゃったんだ。

――三隅さんはあまりおしゃべりする人ではないですね。どちらかといえば無口というか。

新藤  そうですね。柄は大きいんだけど、声もやさしくて、怒鳴ったり、大声を出したりする人ではない。京都の人だから「~どす」という柔らかい言い方 で、物腰も柔らかい感じでしたね。