コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 『ある女の影』覚え書き   Text by 木全公彦
1965年にTBS系列で放映された「近鉄金曜劇場 岡田茉莉子アワー」は、女優の名前を冠にしたテレビドラマ・シリーズの中でも、特に毎回質の高いドラマで評判になった。しかし、残念ながら作品が残っていないため、現在言及されることがほとんどない。

新婚旅行の土産
1964年5月に松竹製作の『日本脱出』をクランクインした吉田喜重は、6月に編集を終えて完成すると、かねてより婚約中だった岡田茉莉子と西ドイツで結婚するために、6月19日夜9時15分のルフトハンザ・ドイツ航空に搭乗した。同日の午前中に『日本脱出』の初号があったばかりである。日本の映画スタアが海外で結婚式を挙げるのは初めてのことなので、羽田につめかけたマスコミ関係者も多い。『日本脱出』の出演者である鈴木やすしと桑野みゆきも見送りにきて、二人に花束を贈り、シャンペンで乾杯をした。

二人は、21日朝(日本時間21日午後5時半)西ドイツのミュウヘン郊外にあるアルプス山麓シュームガウト地方のアッシュハウ村で、木下惠介監督の媒酌、ミュウヘン総領事代行グラースマン教授夫妻仲立ちのもと、バヴァリア地方の伝統にしたがった結婚式を挙げた。この日はあいにくの霧雨だったが、村には西ドイツと日ノ丸の旗が掲げられ、500人近い村民が二人の結婚を祝福した。

式をすますと、二人はそのままヨーロッパを回る新婚旅行に出かける。ウィーン、ローマ、ニース、パリ、ロンドン、アムステルダム、そして再び西ドイツと約40日間にわたる旅である。そして7月31日午後5時40分羽田着のルフトハンザ・ドイツ航行機で帰国した。記者の問いかけに答えて、吉田は「今後ヨーロッパでロケする場合の下検分にもなった」と答えた(「日刊スポーツ」1964年8月2日付)。このときそれがまさかその4年後に『さらば夏の日』(68)で本当に実現してしまうとは夢にも思わない。

二人の媒酌人を務めた木下惠介は、岡田茉莉子主演の『香華』前後篇(64)以後、路線変更へと舵を切る松竹首脳部との仲がこじれ、もっぱらテレビの「木下惠介劇場」の仕事に専念していたが、正式に木下プロを設立し、その映画第一作として木下プロと松竹提携による田宮虎彦原作の純愛もの「落城」を岡田茉莉子主演で撮影すると発表した(「日刊スポーツ」1965年2月23日付)。だが、この話は成立せず、代わりに実話をモデルにした『なつかしき笛や太鼓』を松竹との提携で製作しようとするが、こじれた松竹との仲は容易には修復せず、この企画は商業価値なしと断じられてしまう。結局この作品は、東宝のプロデューサー藤本眞澄の取り持ちで、木下プロと東宝系列の宝塚映画で製作されることになる。

一方の吉田喜重は、新婚旅行から帰国後、『日本脱出』が吉田に無断でラスト一巻が抜かれて上映されたことを知ると、松竹に抗議するが妥協点を見出すことができずにいた。だが、新婚旅行でヨーロッパを回ったときに吉田が回した16ミリカメラでの記録は、TBSが買い上げ、「ヨーロッパ昨日今日」として、30分番組全4回として放映された。構成は吉田喜重。花嫁の岡田茉莉子がナレーションをつけ、一人称スタイルで語り手となる。1964年8月23日に放映された第一回は「ローマは雨だった」というタイトルで、ローマからアシジ、フィレンツェ、ラベンナ、ベネチアを結ぶバス旅行を通して描く。いかなる吉田・岡田のフィルモグラフィにも載っていない貴重なテレビ作品である。