コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 ガミさんの遺言   Text by 木全公彦
“ピンク映画界の三國連太郎”と呼ばれた名優・野上正義の一周忌を過ぎて、1カ月後にこの文章を書いている。野上正義が亡くなったのは2010年12月22日だった。ピンク黎明期から47年にわたって活躍し、生涯に出演した映画は、一般作も含めて千本以上と言われるが、正確な数を知っている者はない。

久保新二の隣に座る
その野上正義――野上さんをよく知る人たちが親しみをこめて“ガミさん”と呼んだことに倣って、ここではガミさんと呼ばせてもらうが――ガミさんがピンク映画界のエリア・カザンについて自らの監督で映画化しようとしていたことを書きたいと思う。

あれはまだ笹塚に佐助という韓国料理の呑み屋があった頃のことだから、十年以上の前のことだったか。ピンク映画の老舗製作会社、国映の新作の初号試写が京王線・柴崎駅にある東映現像所(現在の東映ラボ・テック)で終わると、いつもこの佐助で打ち上げをするのが慣例になっていた。そこにちょくちょくお邪魔していたのである。それであれは誰の新作の初号だったのか。確かサトウトシキの『愛欲温泉 美肌のぬめり』(99)だったような記憶があるが、初号試写が終わったあと、例によって柴崎から笹塚にめいめい移動し、佐助の二階の座敷に集って打ち上げの宴とあいなった。

珍しくその席にガミさんと久保新二の顔があった。最初、久保新二の隣に座った。我らの時代のヒーローである。今ではすっかり忘れられてしまったが、若手映画監督の登竜門であるぴあ主催のPFFの第1回が行われたとき、同時にぴあ主催で、太泉撮影所で大学生たちに絶大な人気を誇った山本晋也の特集上映とトークイベントも行われ、ゲストで山本組の常連の久保新二も登壇して、ハチャメチャな話で会場を沸かせたものだった。
ピンク映画といえば、人目を忍んで劇場の入り口をすり抜けて、スクリーンに映し出される男女の性愛に鬱屈した精神をダブらせて見るもので、後ろめたさに彩られた湿っぽいものだった時代に、山本晋也はカラッとした笑いを持ち込んで、70年代中ごろ、大学生の間で人気沸騰した。そして一躍マスコミの注目を浴びるところとなった。文芸坐でも2週間以上にわたる特集上映が組まれ、そのときもゲストに久保新二が招かれ、サービス精神たっぷりな話っぷりに会場を大いに沸かせたはずだ。我々がタコ八郎という怪優の存在を知ったのもこの山本晋也のピンク映画を通してであった。

その日の久保ちんはいつものように強烈なムスクの匂いをぷんぷんさせて、指にごっつい指輪を嵌めた手でビールの入ったコップを傾けながら、サービス精神たっぷりにハイテンションでエロ話をおもしろおかしくしゃべり倒していた。
「「マスマスのってます」って売れたんですか?」
と訊ねると、
「お前、よく知ってるなあ。売れたよ、あれは」
と上機嫌。落ち着きがないぐらいのサービス精神である。
山本晋也の代表作「未亡人」シリーズで久保ちんが演じる国士舘大学ならぬ国土舘(こくどかん)大学土木部道路標識学科センズリ専攻の万年留年生、尾崎クンは今日も今日とて下宿屋の女将ともうちょっとのところでイタすことができず、センズリばかりしている。その怪演ぶりに場末の汚い映画館も爆笑の渦に包まれた。誰がつけたかシコシコマン。その人気をあてこんで1978年にはレコードデビューする。そのデビュー・シングルが「マスマスのってます」だった。

いっとき、ピンク映画に出演するかたわらで、自らの劇団を率いて全国のストリップ小屋など巡業しており、地方のストリップ小屋に行くと必ず日活ロマンポルノの女優の劇団が先客でいて、そちらばかりが優遇されていたという愚痴を「ズームアップ」に書いていたはずだ。ちょうどその頃は、久保チンの人気も全国区になり、スポーツ新聞や週刊誌に体験談を連載していた頃でもある。その中のひとつ、「週刊大衆」の「オレが寝たポルノ女優50人」という連載がきっかけになり、「週刊大衆」「アサヒ芸能」「ズームアップ」に書いた実名体験談が問題になり、実際に名を挙げられた女優から告訴されたことも当時話題になった。
「あれはね、オレが実際に書いたものじゃなくて、記者にしゃべったもの。いい加減なもんだよ。オレも調子になってしゃべったのがマズかったんだけどな」
と言いつつ、ちっとも反省している様子はない。さすが海千山千の業界のベテランである。

80年代初頭のころだったと思うが、池袋のピンサロで雇われ店長をやっていたことも、当時どこかの週刊誌で読んだ。未亡人下宿のコンセプトをそのまま再現した店で、久保新二がプロデュースということで話題になったと記憶する。90年代の終わりには新宿のメイド喫茶「みるふぃ」で雇われ店長をやっていたはずで、そのことに質問が及ぶと、
「お前、俺より俺のこと詳しいじゃないか」
と言って、席を立った。そして向こうのほうで手招きする。焼酎のお湯割り梅干し入りのコップを持って手招きされたほうに行くと、国映の伝説的プロデューサー朝倉大介こと“お姐さん”がいた。いつも怒られてばかりいるので、この日もなにか小言でも言われるんだろうかと正直ビビっていた。お姐さんはタバコをくゆらせながら、
「おまえね、キネマ旬報のバックナンバーがあるところ知ってるだろ」と訊いた。
「いつごろのものですか。戦前からのものが揃っていて、なおかつ読むだけなら半蔵門にある川喜多記念財団が開架式だから使いやすいんですけれども」
と答えると、
「そうかい。お前、ガミちゃん、知ってるだろ。聞きたいことがあるんだそうだよ」
と言って、手前の席で飲んでいたガミさんを招き寄せた。ガミさんは焼酎の入ったコップを手にして私の横に滑り込んだ。