コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 『お荷物小荷物』とその時代 後篇   Text by 木全公彦
沖縄から北方領土問題へ
このように始まった『お荷物小荷物・カムイ篇』は、第5回『泣きマス・食べマス・Xマス』では大阪ABCホールで公開収録したことがあるが、前作『沖縄篇』よりは“脱ドラマ”の手法や実験性は控え目になった印象がした。代わりに前作の放送直後に米国から返還された沖縄から、いまだ返還のメドすら立たない北方領土にテーマを移したために、政治的なアイロニーは現在進行形のきわどい毒を孕んだブラックなものになった。もちろんぼんくらな小学生がそれに気がつくのはもっとあとのことである。手塚治虫だって『勇者ダン』で1962年にすでにアイヌを取り上げていたのだが、本格的に取り上げた『シュマリ』を発表するのは1974年のことだったのだ。沖縄の次に北方領土とアイヌを取り上げる佐々木守の問題意識というか、日本人源流へのこだわりというか、マージナルな民族への共感というか、そのアンテナには驚くばかりだ。

佐々木守の回想。「一年後『お荷物小荷物・カムイ篇』を放映した。沖縄の娘だった設定を、続篇ではアイヌ民族の少女という設定で、滝沢家に連れてこられた「カムイ」である子熊を取り返しにやって来たということにした。実は沖縄篇の放映が終わった昭和46年に沖縄返還協定が調印された。そこで滝沢家では次はいよいよ北方領土だというわけで、北海道まで北方領土を遠望しに出かけ、そこで熊を捕らえて熊鍋にして食べてしまう。それが美味だったのでその母熊にくっついていた子熊を、大きくして食べようと東京の家まで連れてきて、ガレージの片隅に檻を作って飼うことにした。その「カムイ」である子熊を取り返すべくやってきたのが、アイヌの少女である主人公なのである。残念ながらカムイ篇のほうは沖縄篇ほどの支持は得られなかった」(「戦後ヒーローの肖像」、佐々木守著、2003年、岩波書店)。

確かに実験性は薄れ、脱ドラマ性もいささか予定調和の中で馴れ合いになっていたことは確かだったようである。佐々木守自身、そのことに自覚的であったらしく、放映開始早々、次のような感想を書く。「しかし人間のなれというものは恐ろしいものです。現在再び、『お荷物小荷物・カムイ篇』を作っているスタジオでは、そういった去年の緊張感はうすれているように思えます。そしてこの原稿を書いている12月7日現在、第1回が放送された限りでは「前とくらべて新鮮さがない」という批評がかなり耳に入って来ます。それは、わざと、前回そっくりなやり方でやっていることもあるでしょうが、それ以上に、すでに視聴者にいたるまで「脱ドラマ」になれてしまったということがいえると思います」(佐々木守「脱ドラマ考 タイム・ジャックは可能だろうか?」、「調査情報」1972年1月号)

だが手法の面では、前回にもあった突然ミュージカル調になる歌唱場面の挿入はさらにたくさん盛り込まれていたし、なにより滝沢家の庭先に「返せ!北方領土、樺太・千島」の横断幕が大きく掲げられているというキワドさは、前作以上にラディカルで目立っていたのではないだろうか。なにしろ北海道を訪れた滝沢一家が熊を食べてしまうのは、北方領土を支配するソ連(現在のロシア)を胃袋に納めてしまうというあからさまな暗喩でもあったから。忠太郎じいさんは劇中で何度も「螢の光」の4番を口にする。「千島の奥も沖縄も八州(やしま)のうちの守りなり」という歌詞である。そしてまたじいさんがやたら子熊の「長介」を指し示して「あの熊を食ってやれ! 今夜は熊肉パーティじゃ」と嬉々として叫ぶのは「熊」が「ソ連」のことだからだ。そしてマオイストの戸浦六宏が割り込んで「毛沢東は言っている」としゃべりまくる。政治的笑劇ここに極めり。そう、前作以上に右も左も呑みこんだかなりキワドい番組なのである。