コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
SM映画史に残る巨匠として
そのように、どうも加藤泰作品というと、画面から染み出す情感に胸が熱くなる思いに駆られる半面、血なまぐさい陰惨な記憶が連想的にたぐり寄せられてしまう。連合赤軍と『幕末残酷物語』があまりにそのまんま繋がるからだからだろうか。

先日、シネマヴェーラ渋谷でやった加藤泰特集を何本か見直しているとき、加藤泰は日本映画史上最も偉大なSM映画監督であると断じた知人のSM専門のAV監督の言葉を思い出した。彼はむかし「サドゥールの『世界映画史』の向こうを張って、グリフィス、シュトロハイム、デミルに始まる『世界SM映画史』を書きたい」と半ば真剣に語っていた。冗談だと話半分に聞いていたら、まもなく「SMスナイパー」でその連載が始まってタマげたことがあったけれども、案の定2回か3回で連載は打ち切られてしまった。アホである。

ところで、彼に言わせれば、左翼系の監督ほどサディスティックな描写がリアルで巧く、そういうのがちゃんと描けないのに、左翼をきどっている監督は、ニセモノだという。加藤泰が共産党員でもなければ同調者でもないのに、レッドパージで大映を馘首になったのは、のちにその手の描写が巧い監督になるような素養があると看破され、左翼と間違われたためか。

サディスティックな描写だけでない。加藤泰は愛欲描写も巧い。任田順好や中原早苗のような、お世辞にも美人といえない個性的な女優がラブシーンで愉悦の表情を浮かべるとき、生々しいまでの迫真性がある。愉悦に歪む表情と肌に浮かぶ汗しか映っていないにもかかわらず、である。ほつれ毛の艶っぽさをよく知っている人だなとも思う。それから女郎屋の描写もリアルで、よく五社英雄の安っぽい露悪的なキンキラ趣味と対比されるけれども、これも日本映画広しといえども加藤泰が最も巧いのではないか。錦ちゃんをノーメイクで出演させたり、桜町弘子に羽二重ではなく地毛で頭を作ったり、リアルさを追求していった結果、石井輝男の異常性愛映画よりサディスティックな描写になり、直截的な裸があるピンク映画よりエロくなり、しかも愛欲と残酷さがしっとりとした情感とブレンドされた映画になってしまう。

その加藤泰が幼年時代を過ごし、『緋牡丹博徒 お竜参上』の舞台になったのが名古屋なのである。だから、私が浜松出身とブログに書いている瀬々敬久は訂正するよーに。