コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
鈴木清順の亡霊
それから、2年後の1976年12月、在名の大学映研合同上映会が中区役所ホール(現在の中区役所市民ギャラリー)で開かれ、そこで『けんかえれじい』と『忍ぶ川』が上映された。大学生ばかりの上映会であったにもかかわらず、歓声も拍手もなく、この上映会に『けんかえれじい』見たさに紛れ込んだ高校生の私は、清順を取り巻く空気が、わずか2、3年で決定的に違ってしまったように思われて、居心地がすこぶる悪かった。同時期に映画見たさに出かけた東京では、リバイバルブームに沸く『若大将』をテアトル池袋でオールナイト上映しており、拍手とかけ声で盛り上がっていたというのに……。まあ、あれは『若大将』だったからで、東京でも同じようなものだったかも知れぬ。

それから10年後、私が赤坂見附にあった仕事場で、とりたてて仕事もなくぼんやりしていたら、知り合いのプロデューサーが現れて、「ヒマなら来れば?」と誘ってくれ、映画の現場を見学することになった。それは鈴木清順の新作映画の撮影であった。清順は赤坂のホテルニュージャパンの、まだ例の火災の跡で立ち入り禁止の柵で覆われている中の地下の宴会場で、ちょうど『カポネ大いに泣く』を撮影中だった。撮影現場で見た清順は、ディレクターズ・チェアに座らず、赤絨毯の上にじかに座って胡坐をかき、タバコをくゆらしていた。すぐ横を沢田研二が不機嫌な顔をして横切り、セリフを覚えているか萩原健一はブツブツとなにか呟いていた。火災で多くの人が亡くなったホテルニュージャパンの地下で、成仏できない亡霊たちが彷徨う中、このようなふざけた映画を撮っている清順の姿になんだか笑いが込み上げてきて、私は飽きることなくずっと撮影現場を見学していた。カネはなかったが、時間は無限にあると思っていた時代のことである。むろん、そんな錯誤に満ちた時代は二度と訪れはしない。

「絶望という名の女が砂漠に行くな、と云われる。砂漠には希望があるからだという理由であるが、絶望という名の女は遂に砂漠に行って了う。映画をとる、ということは、或いは人生で一番悲しいことであるような気もする」(鈴木清順、「キネマ旬報」1975年2月上旬号、「顔と言葉」)