コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
鈴木清順に映画を撮ってもらおう!
シネトピアの清順特集第2回「清順に映画をとってもらおう」のトークゲストは、鈴木清順当人と在名の映画評論家の森卓也。主宰者は20歳前後の学生バイトであるから、あこがれの映画監督を東京から迎えてビビりまくり、ただでさえそういうことに慣れていない地方の学生だから、悲惨なほどあたふたして、見ているこちらまで段取りの悪さがびんびん伝わってきた。ゲストが壇上に上がるための階段すら満足に用意できず、清順は下から壇上に這い上がるようにしてよじ登らなければならなかった。さらにその舞台裏はそれ以上に全然なっちゃいなかったようなのである。

74年11月に行われた、3度目の清順特集の上映作品は、『野獣の青春』、『木乃伊の恋』、『花と怒濤』、『俺たちの血が許さない』、『東京流れ者』の5本。ゲストは木村威夫と森卓也。その時分、木村威夫はキネマ旬報に「今年こそ鈴木清順に映画を撮ってもらうために!」というエッセイを連載しており、そこで名古屋で行われた、このときの清順映画のオールナイト上映会の仕切りの悪さを呆れる一文を書いた。
「(私は)少々自分がおめでたい存在であることに気がついたのである。そういえば、東京を発つ時嫌な予感がしたのだ。そのホテルの番号は13号であった。来る時の金曜日であるということと、ヒカリ号の乗車番号が13号であり、帰りの番号も13号であることを思い出すと、私は急に不安になった。そのビジネス・ホテルのためか長四畳程の所にいっぱいのベッドがあるだけで飲み水とてなく、急に不安と怒りがこみあげて来て、廊下に出るとコインを入れ、カン・ビールを求めて非常口をさがしたのである。散りばめたような街々の灯りが妙にうすら寒く思え、冷たいビールが冷えた胃の中につっぱしるのである。いい大人が、いい調子になって名古屋まで来て、何の報酬もなく黙って帰る、このうすら寒い気持、ビールの泡が己れの心の泡のように思え、私はホテルの廊下にビールのカンをころがした。カンはコロコロと動いたが、疲れたように動かないで止まった。名古屋の人よ、俺を怒らさないでくれ! この流れ者のせりふが、私の唇からついて出た。(略)流れ星の健こと二谷英明が哲に言ったっけ、『人のことを信用しちゃ駄目だ!』と」(「キネマ旬報」1975年3月上旬号)

木村威夫は不満をぶつけるために名古屋東映に電話するが、金銭上のことはよく分からぬと東映の社員が告げる。以下、木村威夫の、ほとんど八つ当たりとも思える名古屋に対する不満が延々と綴られる。要するに、木村威夫は、わざわざ東京からやってきたのに、交通費として渡されたのは新幹線のグリーン車にも乗れない金額で、謝礼はなし。用意してもらった名古屋東映すぐ横のホテルは安っぽいビジネス・ホテルで踏んだり蹴ったり、で怒りが誌面に爆発したのだった。
ところが、これは主宰者であるシネトピアの学生バイトたちの預かり知らぬことで、企画はシネトピアであっても、謝礼やホテルなどは名古屋東映の仕切りだったのだ。木村威夫の抗議を耳にした学生バイト――わが年長の友人たち、オオノさんやイワタさんは青ざめ、謝罪の手紙をしたため、いろいろとご迷惑をおかけし、至らぬことばかりで申しわけなかったと書き、名古屋特産の守口漬を送った。

ところがこれが木村威夫の心を深く感動させたらしい。前記の木村威夫の文章には「追記」として、その手紙が署名入りでそのまま転載されている。
「以上の文面から察しられるように、私の名古屋行は両君のアイデアであり、名古屋東映としては、計算外の状態であったのである。むしろ旅費と宿泊代という余計な予算が出費したという迷惑なことだったのであろう。両君は、大事なお小遣いの中から出し合って私に守口漬を謝礼のつもりで送ってくれた。その心のやさしさが、何よりも、流れ者の心をなぐさめてくれたのである。その守口漬の、甘すっぱい香りが、酒の香と共に、涙にぬれたことを付記しておこう」(前出「キネマ旬報」)
ああ、恥ずかしい。