コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
鈴木清順
シネトピア不始末記
1968年、日活によるシネクラブへの鈴木清順作品の貸出停止に端を発し、清順の日活馘首から、映画ファンを巻き込む鈴木清順問題共闘会議が結成され、高揚する学生運動と呼応して大きなうねりになっていったかについては、改めて説明するまでもないだろう。だが、それは東京における記録であって、地方都市にいた映画ファンがどのような連帯を示したか、資料はないし、語る人もいない。私だって当時はまだ怪獣と妖怪に夢中だった小学生なのだから、名古屋の事情がどうであったかまったく知らない。

だが、それから5年後の1973年11月。つまり中学生の私がシネハウスに出入りするようになった年の晩秋のことだが、シネハウスの柱に「シネトピア‘73 旗揚げ第一回上映会 鈴木清順オールナイト5本立 於:東映パラス」の告知チラシが貼られていたことはよく覚えている。それは名古屋東映などでバイトをしていた学生連中らが立ちあげたシネトピアという自主上映団体のオールナイト上映企画の第一弾でもあった。

その後、彼らは東映パラスを根城にして、翌1974年1月には「置き去りにした悲しみなんかいやせやしねえー」(よく覚えていないが確か「野良猫ロック」特集だったか?)、2月に「文太、欣二の呟きひとつ」(深作欣二オールナイト5本立)を経て、毎月のようにオールナイト上映を企画し、その年の9月に再び鈴木清順特集で「清順に映画をとってもらおう」(鈴木清順オールナイト5本立)のプログラムを組んだ。さらにその年の11月にも3度目の鈴木清順のオールナイト5本立オールナイトを行った。いずれも夜10時開始、翌朝6時頃終了。入場料500円也。
以降、1976年の東映名画座で行われた「田中登オールナイト6本立」を最後にシネトピアは発展的解消(?)をするのだが、私はまだ中学から高校にかけてのガキんちょで、盛り場の映画館でオールナイト映画を見るというのは、立派な未成年の深夜徘徊であるから(ましてや成人映画もあるし)、補導員に捕まらないように気をつけなければならず、映画を見るときの後ろめたさとそれゆえの快感はこのときに刷り込まれたものが大きい。

東京においては清順映画が名画座でかかれば、場内から拍手が起こるという噂は聞いていたが、それがいつ頃始まったものかは知らないが、確か1973年頃だったろうか、現在の名古屋シネマテークの前身である名古屋シネアストの母体であった名古屋大学の学園祭に『刺青一代』を見に行ったら、もういくぶん制度的な狎れ合いに堕してはいたけれども、拍手の嵐で、東京での噂は本当であると驚いた。ご多分に洩れず、シネトピアでの清順映画の上映会でもクレジット・タイトルが出るやいなや拍手。そしてずっと拍手の連続といった具合だった。

だが、このシネトピアなる団体主宰の上映会のことは、単に70年代の名古屋という文化不毛の地でぼんやりと映画を見るだけの日本映画ファンを熱狂させたにとどまらず、ある“事件”によって、全国に広く知れ渡ることになった