コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
第一次シネハウスの中3バカトリオ
さて、まだ小津といえば、若い映画ファンの大半が「わび・さび」の世界だと思っていた頃の個人的な思い出話である。

1970年代、名古屋の中心部繁華街、栄に東映中部支社ビルがあった。今のサンシャイン栄があるあたりである。錦通りに正対して中央は東映封切り館の名古屋東映、左の地下には松竹の封切館の東映パラスがあった。右側はビルの中に広小路通に抜けられる屋根付きの路地があって、そこから階段で二階に上がると日活封切り館の東映名画座があった。

シネハウスというパンフレットを販売する店があったのは、その路地を入ってすぐ左の、柱のあるあたりだった。店といってもキヲスクのような小さなスペースにラックや箱を並べ、そこで新旧の映画パンフレットを販売しているという露天商みたいな感じである。いつも店番をしていたおばちゃんによると、本業は春日井市で古着を扱っていると言っていた。
店ができたのが72年頃のことで、そのうち店には映画好きが集まるようになって、同好の社交の場となり、柱には仲間への連絡のための伝言メモが貼られ、本やレコードの貸し借りの中継点になり、そして自然発生的に店の名前を採って「シネハウス」という学生と社会人の映画サークルができた。中学生だった私は、サークルの中では最年少で、いちばん年長であった、ふだんは建設会社の現場監督をやっているタナカさんとは20歳近く年が離れていた。私と同じ年齢の中学生がほかに2人いたため、キマタ・イクタ・オガワの3人は、ノダさんによって、同じ年の森昌子・桜田淳子・山口百恵の「中3トリオ」をもじって「中3バカトリオ」と命名された。

サークルでは、ガリ版刷りの同人誌を出したり、月に一度名古屋駅西口にあった国鉄ビルの和室の会議室を借りて、合評会を開き、その帰りには駅前にあったピンク映画の上映と実演の劇場「テアトル希望」の前にあった純喫茶「白薔薇」でコーヒーを飲みながら、合評会の延長で、みんなでああでもないこうでもないとダベった。「白薔薇」のあったあたりは、現在「大都会名駅店」というパチンコ&スロットの店になっているが、すっかりきれいになってしまい、昔日の感がある。思えば、こんときタバコを覚えたんだよなあ。ピアノの先生をやっているというイナガキさんが、私にタバコの煙を吐きかけて、「吸ってみる? 坊や」って言ったのである。なんだかHなVシネマのような安っぽい思い出であるなあ。

やがて店のオーナーが変わり、場所も丸栄デパート裏のビルに移転し、ワーナー・ブラザーズのレンタル・ビデオの、名古屋地区における取り扱いを始める頃には、店に集まる顔ぶれもがらりと変わり、サークルも自然消滅し、私の足も遠のいた。

ところで、最初のシネハウスに集まった常連客やサークルのメンバーたち(その多くは二十代だったと思う)の中には、黒澤明について「昔はおもしろかったけど」という人もいたが、ほぼ全員が1971年3月の名鉄ホール「黒澤明特集」には通っており、ホールは若い人で満員だった。しかし、溝口健二や成瀬巳喜男、内田吐夢などの名前もたびたび挙がった中で、誰ひとりとして小津安二郎の名前を好意的に口にしたことはなかったように思う。だから突如、80年代になって、同世代の連中が「小津、小津」と言いだすのは、どうも胡散臭いと思っているのだが、その頃、若い世代の映画ファンが、情熱をもって誰もがその名前を語り、神のように崇めたのは、鈴木清順と加藤泰であり、次の世代の筆頭は、同時代の深作欣二と神代辰巳だった。