コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
同時代体験を正当化する
最近、ネットサーフィンをしていたら、とあるツイッターにこんなやりとりがあった。「封切りのとき見ているという自慢する輩がいる」というような内容で、「それがどうした」とタンカを切って、フォロワーたちもそれに賛同しているというものだ。そうかなあ。同時代体験だけに安住してそれを相対化できないでいる、ボケた“ノスタル爺”はどうかと思うが、「どうした」と言って切り捨てればいいってものじゃないという気がする。物事は時代と切り離すことで見えるものと、同時代だから分かるものがあると思うが、そんなの当然ではないか。

別に封切り当時に見ているからと言って自慢するわけでは全然ないが、その時代特有の匂いを感じながら映画に接した個人的な体験は大事にしたいと思う。やはり《いつ》《どこで》《自分がいくつのときに》その映画を見たかによって、映画の印象はまるっきり違うし、そういうことに意識を向ければより映画の理解は深まるはずだ。少なくとも《映画を見る》ということが、一期一会の《体験》であった時代が確実にあった。いや、ビデオやDVDなどの再生メディアが登場した現在であっても、人間の本質が大きく変わっていない以上、《映画を見る》ことは《体験》であることに今も変わりがないように思う。

――なんてことを書けば、「何を青臭い、時代遅れなことを」と突っ込みが入りそうだが、たとえば、小津安二郎でもよいし、黒澤明でもよいが、自分が十代だった70年代に、多少なりとも映画好き(「シネフィル」なんて言葉はなかったのだよ)を自任していた若者であれば、当時はそれらの巨匠の受容のあり方だって今とまるで違ったはずなのに、それから5年も経たないうちに、なんの検証もなしに、公の映画史と個人史との双方でこっそりと修正が行われていることに、なんとも居心地に悪さを感じるから、あえて異議を唱えてみたくもなるというものである。

小津でいえば、映画史研究家の本地陽彦が学生時代に自主映画を作っていた仲間の学生たちと一緒にテレビで小津映画を見たときの記憶を「仲間たちの失笑が続いていた」とある本に書いていたが、本地よりずっと年下の私でも、その時代に小津を見ることとは、そのように退屈さをガマンし、失笑を噛み殺さずにはいられないことだったし、大島渚や吉田喜重や実相寺昭雄のATG映画(忘れがちだが、これらはほとんど《成人映画》であった)を見ることとは正反対の、反動的な行為であった。当時は「あれは盆栽だ」と思っていたから、本地の書いていることはものすごく理解できる。

70年代という時代のせいか、それともこちらが十代だったというせいなのか、小津のよさを少しでも分かるようになったのは、20歳を過ぎた頃のことで、いくぶんそのときの心境も絡んでいたように思う。あれほど退屈で、いつもガマンしながら見ていた小津作品を見て、まさかしんみりとした気分になるとは思ってもみなかった。これには正直自分でも驚いた。

ちょうどその時分、つまり80年代初めだが、名古屋のヘラルド本社があった旧ヘラルド会館の3階のレンタシアター50という小さな上映スペースで、私は仲間たちと一緒に早稲田大シネ研や立教大SPPの映画を中心に、30本近くの8ミリ映画を上映する大規模な自主上映会を開いた。連日5名程度しか客が来ないという悲惨な入りで、会場には閑古鳥が鳴いていたが、観客たちから回収したアンケート用紙に、黒沢清の『SCHOOL DAYS』を見た感想として「もっと古い日本映画を勉強すべきでしょう、小津安二郎とか溝口健二とか」と書かれてあったのを、私は苦笑しながら読んだ。でも同時にそれはまったく嘘のない感想のように思えて、「そう思う気持ちは分かる」と内心頷きもした。

すでに蓮實重彦は一部には知られた存在であったはずだが、その後、急速にもっと自由かつ多様であるべき個人の感想や印象がひどく画一化し、なんだか『ボディ・スナッチャー/盗まれた街』みたいで、そのこと自体が自分にも周囲にも抑圧的に働くさまに息苦しさを感じるようになった。