コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 続・合作映画の企画   Text by 木全公彦
「週刊プレイボーイ」1979年11月13日号
再び吉田喜重について~『侍・イン・メキシコ』
前回のコラム「ある日米合作映画の企画」の冒頭にも掲げた、メキシコに赴きながらも頓挫した吉田喜重の日本・メキシコ合作企画、『望郷の時』あるいは『侍・イン・メキシコ』と題された映画のついて書き記すことでしめたいと思う。
前出の「女優 岡田茉莉子」によると、メキシコ側のプロデューサーはヴィンセンテ・シルバ・ロンバルドとなっており、日本側のプロデューサーについての記述はないが、前回書いたように『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー、西崎義展である。

題材は支倉常長。伊達政宗の家臣で、江戸時代初期、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた武士である。以下、ウィキペディアからのコピペ。

「慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャへ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。/そして伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れスペインを経てローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。1615年1月30日(慶長20年1月2日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日(元和元年9月12日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見するが、スペインとの交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620年9月20日)、帰国した。/政宗の期待のもと出国した常長ではあったが、出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗直筆の手紙が残されている。果たして帰国時には日本ではすでに禁教令が出されており、2年後に失意のうちに死去した」

文中で登場するウィリアム・アダムスは三浦按針の日本名でも知られるイギリス人で徳川家康の外交顧問。これについては1957年に大映で映画化の企画があった。永田雅一が欧米に旅行したとき、『八月十五夜の茶屋』(56、ダニエル・マン)のプロデューサー、ジャック・カミングスと会って企画したのである。ところが、それは実現せず、その企画は『山田長政 王者の剣』(59、加戸敏)と形を変えて実現する。
なお、同じ時期に大映では、広島の原爆を主題にしたフランスとの合作『ピカドン』を企画しており、当時「脚本はマーガレット・デューク」と発表されたが、これは英語読みで、フランス語読みでは「マルグリット・デュラス」で、日本封切りの際には『二十四時間の情事』(59、アラン・レネ)という煽情的な邦題がつけられた(リバイバル時には『ヒロシマ・モナムール』と改題)。フィルムセンターが所有しているのは、大映が封切った日本公開版(クレジット部分が日本語、被爆者の記録映像を一部削除)である。

1980年、吉田喜重の支倉常長の企画と終わりなき(やがては挫折する)苦闘を続けている一方、アメリカで三浦按針を主人公にしたテレビシリーズ『将軍 SHOGUN』(80、ジュリー・ロンドン)が大評判になるのは、映画史の皮肉であるというほかない。