コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 続・合作映画の企画   Text by 木全公彦
再び吉田喜重について~『女たちの遠い夏』〈その2〉
「遠い山なみの光」は、イギリス人と結婚し、イギリスに住む日本人女性・悦子が長女・景子の自殺に直面し、自分が育ち、最初の夫と暮らした戦後まもない長崎での出来事を回想する話である。小説は悦子の一人称で描かれているが、小説の中で直接的に原爆や被爆体験が描かれることはなく、それらは暗示にとどまっている。悦子が回想するのは、原爆投下と敗戦の混乱をまだ濃くひきずりながらも、対岸の朝鮮での戦争を足がかりにして復興への道を歩みだす長崎での出来事――敗戦のごたごたの中で世話になった緒方という学校の元教師の息子と結婚し、旧弊な義父とそれを息苦しく思っている夫と暮らす悦子の日々の生活のことであり、そのときに知り合った佐和子という女性のことである。佐和子は、戦前は名家の夫人だったらしいが、今は荒れ果てた空き地の外れの家に娘の万里子と二人で住んでいて、アメリカ兵と交際し、彼が自分をアメリカに連れて行ってくれる当てにならない約束にかすかな未来を託している。さらに小説の大半を占めるその回想部分に、戦時中に悦子が戦火の中で目撃したわが子を殺す女性のイメージが挿入され、3人の女性の姿が重なり合う。

最初の翻訳版「女たちの遠い夏」がちくまで文庫になったのは1994年。それから2年後、吉田喜重はカズオ・イシグロに正式な許可を得て、映画化の準備にとりかかる。再び「女優 岡田茉莉子」からの引用。

「三月の末(…)そしてロンドンでは、原作者のカズオ・イシグロ氏と、イギリスのプロデューサー、ジョン・マックグラス氏とお目にかかった。カズオ・イシグロ氏は日本語が話せないが、その身のこなしは、日本人となんら変わるところがないひとだった。そして劇作家でもあるマックグラス氏は、映画のプロデューサーというより、大学の教授といった印象のひとだった。/さらに空路、ロケ地であるエジンバラへと向かった。(…)『女たちの遠い夏』は、長崎で被爆した私が、戦後に結婚し、女の子を産む。しかし、夫との折り合いが悪く、放射線の専門医として来日していたイギリス人と再婚、その故郷であるエジンバラに移り住む。その後、夫は亡くなり、最初の夫との娘は自殺、いまでは二度目の夫との、混血の娘とふたりで暮しながら、私自身が経験した戦前、戦後の長崎の記憶をよみがえらせてゆくのである。/私が亡き夫と暮らした家も、エジンバラ郊外の海辺に近い断崖に、二十世紀初頭に建てられたという館を、借りることができた。また私の娘役の、若いイギリス人女優も決まり、私がこの娘と会話する台詞も、舞台女優であるマックグラス夫人がテープに吹き込んでくださった。この年の秋、落葉が舞うころ、エジンバラでの撮影も決まり、私はテープを使って、英語のダイアローグの発音練習を始めた。/四月末、帰国してからは、私が映画のなかで回想する、長崎の場面の準備に追われる日々だった。イギリス、フランスとの共同製作を、日本側では日活が引き受けてくださり、衣装合わせや本読みも順調にすすめられていった。/やがて七月上旬には日活のスタジオにセットが組まれ、あと五日でクランク・インというときだった。突然、日活が製作の中止を、一方的に伝えてきたのである。/吉田はイギリスのプロデューサー、マックグラス氏と、フランスのプロデューサー、ジャッキエ氏とを東京に呼び、日活の社長と話しあったが、残念ながら解決の糸口が見出せず、製作を中止せざるを得なかった。/日活のスタジオでは日本家屋のセットを作り、戦前の時代を感じさせるために、柱や壁、廊下などに、丹念に汚しをかけてきた美術スタッフは、撮影中止のニュースに涙を流したと聞かされ、私は胸がふさがれる思いがした。こうした不幸の原因は、製作を熱心にすすめてきた日活撮影所側と、その日活を買い取った会社の社長とのあいだに、トラブルがあったからだという。/吉田だけが冷静だった。コマーシャル・ベースの映画界では、広島や長崎を主題にした映画を容易に作れないことが、吉田にはよく分かっていたのだろうか。夫は非難めいたことはなにひとついわず、なにも語ろうとはしなかった」

ちなみに1996年、一度は倒産した日活が会社更生法で新しい社長に就任したのはナムコの中村雅哉である。そして日活の現在はナムコからインディックスに売却されたのを経て、日本テレビの傘下にある。ホント万物流転であるなあ。