コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 続・合作映画の企画   Text by 木全公彦
再び吉田喜重について~『マダム・バタフライ』
実は、『さらば夏の光』と『鏡の女たち』の間に、吉田喜重が原爆を取り上げた知られざる二つの作品があったのである。ひとつは、1990年、フランスのオペラ・ド・リヨンのオペラ『マダム・バタフライ』の演出を吉田がしていることである。
いうまでもなく、『マダム・バタフライ』はプッチーニによる二幕構成のオペラで、長崎を舞台に没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官のピンカートンとの悲恋を描いたものだ。古くは三浦環が得意とした役であり、オーストリアに留学し、ドイツ語圏で活躍した田中路子も得意としたレパートリーでもある。1955年には日伊合作映画が製作され、カルミロ・ガローネ監督で、蝶々夫人を八千草薫、田中路子もスズキ役で出演している(ちなみに演出助手は増村保造である!)。

1990年1月25日、オペラ・ド・リヨンで初日を迎えた吉田喜重演出による『マダム・バタフライ』は、蝶々さんに西田宏子(再演時は中丸三千繪)、ヤマドリに河野克典、ピンカートンにバチェスラブ・ポゾロフ、スズキにハク=ナム・キムら、インターナショナルな配役で、美術・磯崎新、衣装・山本耀司というスタッフが顔を揃えた。
以下、岡田茉莉子による自伝「女優 岡田茉莉子」(文藝春秋、2009年)からの引用。

「舞台は薄明かりのなか、芦川羊子さんが登場、手にした行灯の灯を吹き消すと、一瞬暗闇となり、ケント・ナガノさんの指揮による『マダム・バタフライ』の序曲が、これまで聴いたことのない力強さにみちて、それも急テンポで響きわたった。/吉田の演出のコンセプトは、とても明確なものだった。第一幕は戦前の長崎、芸者であるバタフライが、アメリカの海軍将校、ピンカートンにお金で買われるという、私たちにとっては気恥ずかしいストーリーを完全に忘れさせて、若い男女の結婚に至るまでの恋を、おおらかに歌いあげるという展開になっていた。そこにはエキゾチスムの面影もなく、日本人への差別感も消し去られていた。/そしてオペラの悲しい宿命である、歌うことに神経を注ぐあまり、おのずから歌手たちの演技がつたなくパターン化されてしまうことを怖れて、ソリストたちからコーラスのメンバーにいたるまで、吉田がきびしく求めた、舞踏するような統一された身のこなしが、これがオペラとは思えないほどの劇的な高まりを感じさせたのである。/(…)第二幕は、長崎に原爆が投下され、廃墟と化した戦後という設定で演じられた。バタフライの家も半壊し、庭の大木も倒れて、根がむき出しになって、空に向かって突き立っている。当然のことだが、吉田にとっては、なによりもまず、長崎は原爆の地だったのである。/やがてオペラは、ピンカートンの帰還となり、アリア『ある晴れた日に』が歌われる。しかし夫を待つ身のバタフライは、生まれた男の子を原爆で亡くし、狂気のひととなっていた。そして大きな白衣の人形を、あたかも生きているわが子のように抱いて、バタフライは歌うのである。(…)ラストに訪れる、バタフライの自刃。その瞬間、家はすさまじい屋台崩しとなって、宙に舞い上がり、駆けつけたピンカートンの「バタフライ!」という叫び声に、バタフライはテラスによろめき出ながら事切れて、オペラは終わった」

2004年、ポレポレ東中野での「吉田喜重 変貌の倫理」と題された吉田喜重作品のレトロスペクティヴのトークにおいて、すでに岡田茉莉子は自伝に書かれたこの様子を繰り返し観客に語っているのだが、そのとき「もしかしたら来年は東京にいらっしゃるみなさんにもやっとご覧いただけるはずです」と語ったはずである。その期待は現在まで宙吊りになったままで、そのまま沙汰やみの格好になったのは、やはりメセナがまったく育たない日本だからなのか、スポンサーが目前まで迫ったリーマン・ショックを予知していて手を引いた、なんてことが理由ではないかと思う。