ピンク映画と実演 名古屋死闘篇
マキノ雅弘が京都で『此村大吉』を撮影していたときのエピソード。「十三ぐらいの女の子が、パーッと前に出てきて、<いい男やなあ鶴田浩二、オメコしてくれ>と、ずばり面とむかっていうんです」(「山上伊太郎の世界」、竹中労、白川書院、1976年)。なるほどねえ。さすが関西、子供までストレートやなあ。こういう話を聞くと、近年、映画をめぐる言説が小難しくなければ成立しないようでなんだか息苦しいが、映画の根っこにはもっと根源的なもの、即ちリビドーを刺激する欲望があることを忘れてはいけないような気がすると改めて思う。私ら世代の男なら怪獣とか特撮とか妖怪とか。もうちょっと前の世代なら西部劇とかチャンバラとか。それからやっぱエッチ、エッチ、エッチ!

そこで「オメコ」である。昔、「探偵ナイトスクープ」の調査から「バカ」と「アホ」の分布図なんて本ができたことがあったけど、「オマンコ」と「オメコ」の分布図というものがあればいかなるものか。名古屋の場合、「バカ」にも「アホ」にも属さない独自の「タワケ」文化があったように、名古屋では「オマンコ」でもなく、「オメコ」でもなく、「オベンチョ」と呼称する文化があるのである。

小学校五年生のときに、クラスに西部劇好きの男子がいて、彼と仲良くなったのが、思えば本格的な映画煉獄の始まりだったと思うが、中学に入るとはじまったばかりの日活ロマンポルノの看板を気にしないで歩こうにも目に入ってしまってどうしようもなく、その落ち着きのない様子をたまたま見ていた緑のおばさんに一緒にいる友達の面前で注意されて恥をかかされたことから、「ぐれてやる!」と反撥し、未成年の身分で成人映画を見るようになったのかどうかは、もうかなり古いことなので忘れてしまった。しかしながら、特撮やハマープロからじょじょに分野を広げ、名宝シネマという名画座で『風と共に去りぬ』や『マイ・フェア・レディ』を夢中になって見始めた頃は、同じ名宝会館に名宝文化というATG系列の契約館があり、そこで上映されるATGの芸術成人映画の予告篇が名宝シネマでも上映されており、記憶している限りでは実相寺昭雄の諸作(むろん成人映画)の予告篇にものすごく反応したから、悪所をうろつく少年が成人映画を見るようになるには、さして時間はかからなかった。

ところで、いきなりだが、1973年という年号は、やくざ映画とロマンポルノが揃ってキネ旬等のベストテン入りしており、これを見ずして映画の現在を語るのはなにか手落ちではないかと、中学生にも思わせる熱気のようなものがあったことは確かである。付け加えておくと、やくざ映画のほとんどは併映作品の関係からほとんどが成人映画であった。そしてその時代、もうひとつ見ておかなければならないものがあった。現在ではもう忘れられ、ビデオやDVDでは再現不可能になってしまった成人映画(主にピンク映画)上映館ならではの出し物、即ち実演と呼ばれるライブである。
1973年、東京都23区内での映画館の数は313館。これに対して愛知県の映画館の数は150館、そのうち名古屋市内にあった映画館は76館あった(「映画年鑑」に拠る)。東京とはお話にならないぐらい少ないが、当時はまだ日本映画の4つ(松竹、東宝、東映、日活)のメジャー映画会社によるブロック・ブッキングが崩壊寸前とはいえ、残っていたし、トヨタを始め、いくつもの世界的な企業を抱える名古屋市は、貯蓄率日本一を誇り、堅実で知られる土壌もあって、外国映画に関して封切りは二本立て興行をしており、下番館は3本立て、4本立てというのも珍しくなかった。また、映画館のほかに70年代までは、名古屋派と呼ばれる実験映画やシネクラブ運動も盛んであったので、それほど映画上映の状況が悪かったとは思えない。ただし、80年代以降、その状況は急速に退潮する。
以下は、私が1970年代によく通ったピンク映画常設館だが、下番館が多いのはテケツのおばちゃんがボケていたり、おおらかだったりして、未成年チェックがユルく、中・高校生でもなんとか潜り込むことができたからである。ただし場内に補導員がいる場合もあるから、細心の注意を払う必要はあったけれども(皮肉にもつかまったのは、『ジョニーは戦場に行った』と『駅馬車』(リバイバル)を毎日大ホールで見た帰りで、それが平日だったため、怠学ということになった。始末書だけだったが、気を抜いた俺がバカだった! 大人は判ってくれない!)。
(※印は実演付き)


「中日スポーツ」1972年1月1日、
テアトル希望の広告
※テアトル希望(中村区)476席、1948年創立、当初は松竹封切
 大須名画座(中区)380席、1950年創立、当初は外国映画の名画座
 円頓寺劇場(西区)256席、1951年創立、当初は新東宝封切
※旗屋シネマ(熱田区)250席、1951年創立、当初は外国映画の名画座
※大江文化劇場(南区)260席のちに198席、1953年創立、当初は大映・東宝・外国映画の封切

一覧にある映画館のうち、1973年当時、テアトル希望だけが封切館で、大江文化劇場が封切と名画座の混在型。あとはいわゆる名画座とか下番館といわれる劇場である。どの劇場も映画産業の景気がどんどん伸びていった時代に建てられた古い建物で、映画産業の不況化に伴い、てっとり早く安定した利益をあげることのできるピンク映画館に転身した映画館ばかりである。

テアトル希望は名古屋駅前の繁華街をちょっと入ったところにあり、当初は松竹の契約館であったらしく、最も収容人員が多い。この劇場の最大のセールスポイントは「実演と映画」だった。新聞広告には「ズバリ! 楽しめる映画は成人向」というキャッチコピーが必ず書かれていた。1972年の正月に谷ナオミ劇団が名古屋初お目見えで実演をし、その後の1974年には谷ナオミの一番弟子である東てる美も映画出演や東京での実演に先駆けて、一足先にテアトル希望の実演でデビューを飾ることになる。

大須名画座は、1970年代にはピンク映画や日活ロマンポルノを上映する名画座となっていたが、古いピンク映画を併映作品として上映することも多く、ここで、私は、若松孝二の1960年代の名作群や、ピンク映画の名作の誉れ高い新藤孝衛監督『雪の涯て(別題『青春0地帯』)』(65)、梅沢薫監督『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』(70)、武田有生監督『好色一代 無法松』(69)、武智鉄二監督『黒い雪』(65)などの旧作ピンク映画を見た。


円頓寺劇場は、成人映画を一日に5本から6本上映する名画座で、東映・日活・ピンク映画おかまいなしに特集上映を組んでいたので、ここにはいちばんよく通った。年長の知人が映写技師をしていたので、顔パスで入れてくれたことも大きい。1970年代末にはマンガ図書館を併設し、80年代に入るとビデオ図書館も増設。ビデオ・レンタル時代の草分け的存在であるが、成人映画からアダルトビデオ、国内外の名作映画、カルト作品まで収蔵し、閲覧できるというシステムはずいぶん重宝した。またビデオの生テープも廉価で販売していた。

旗屋シネマは60年代後半には二番館として洋画3本立てを上映していたが、やがて成人映画専門の名画座になった。この劇場には、舞台中央から観客席に張り出した、通称「でべそ」といわれるステージがあり、それがいつ頃設置されたものかは不明だが、70年代もぼつぼつ実演付興行をやっていたようだ。1976年から78年にかけては、当時、常設館を持っていなかった名古屋を拠点とするシネクラブ、名古屋シネアスト(現在の名古屋シネマテーク)が利用することもあったので、「でべそ」のある成人映画館で、大島渚の特集上映やトリュフォーやド・ブロカの作品を見るという奇妙な体験をした。ちなみにこのときも3本から5本の作品を一挙上映するという形態(その後、ストリップ劇場に転身し、1980年代半ばに閉館)。


「中日スポーツ」1972年1月21日、大江劇場の広告
大江文化劇場にも舞台に「でべそ」が設置されてあり、ここは完全に実演に特化した番組編成で、テアトル希望でやっていたような寸劇に毛の生えたようなドラマ仕立てのセクシー・ショーではなく、もっとエゲつない「こけしベッドショー」とか「天狗ショー」とかやっていたが、まだ未成年だった私は、さすがにビビってほとんど行ったことがない。この劇場は70年代後半には映画館を廃業し、DX(デラックス)大江というストリップ劇場に転身した。ステージの「でべそ」をそのまま流用したのである。それまで名古屋で主流だった比較的大人しいストリップと異なり、京都を拠点にするDXを冠にする興行会社の系列のストリップは相当えげつないと11PMで見て知っていたが、噂どおり当時名古屋ではほとんどなかった本番まな板ショーを中心にした過激なストリップで、一度だけ見に行って虚弱な私は退散した覚えがある。余談だが、映画に限らず、性風俗に関して関西は相当過激で、ストリップはいうに及ばず、70年代・80年代にわたり、阿倍野スキャンダルを第1号とするノーパン喫茶など、新しい性風俗を次々と考案し、その流行は次第に東進し、東京を席巻するのが常態であった(そのDX大江も1990年には閉館)。
ここで当時のピンク映画における実演について書いておこう。

映画と実演というと、戦前からある連鎖劇のように、上映される映画と実演がつながっているような形を連想するが、70年代にはほとんど実演はそれだけで独立した芝居やアトラクションになっていた。内容は、時代劇あり、現代劇でありで百花繚乱。着物の裾やネグリジェからチラリと太腿や胸が見える程度のものもあれば、入浴ショーやSMショーもあった。はっきり言えば、ピンからキリまでといったところだろうか。1974年、谷ナオミ劇団の座員として名古屋のテアトル希望でデビューした東てる美は、谷ナオミ劇団から独立し、1975年に東てる美劇団を旗揚げする。12月の旗揚げ公演はテアトル希望で行ったが、東てる美劇団の実演のお粗末な様子を揶揄した記事がある(ちなみに東てる美は東京出身。博多出身の谷ナオミともども名古屋のテアトル希望を贔屓にしていたのはパトロンがいたからだといわれる)。

「意気揚々の東京公演は新宿の歌舞伎町日活で、オールナイト興行の一部をカットして夕方7時と深夜2時2回。スクリーン前のせまい“舞台”で一座が演じるのは「踊り子無情・濡れつぼみ」。ヤクザにだまされてドサ回りの見世物一座に売られた踊り子の悲しいオハナシだが、東はもちろん3人の女優はアッという間にハダカになって、レズありムチ打ちあり、強姦ありと熱演また熱演である。東に恋する男が「ボクはキミが好きだ」と言い寄る場になると、「ボクもスキ!」「ボクも、ボクも」と場内は騒然となるし、「ぶっつけ本番でごめんなさいね」と東が挨拶すれば、「いいんだよ」といった調子で、芝居の出来、不出来はそっちのけ。“実演”が終わるや3分の1ほどに減った客席で、残った中年客いわく、「入場料はふだん通りだし、トクした感じはするんだけど、それにしても学芸会みたいだったなあ」」(「週刊文春」1976年4月8日号)。

人気絶頂だった東てる美だから、という記事だが、まあ、こんなもんである。最前列で見ていると白粉の匂いまで漂ってきて淫靡な雰囲気はしたが、所詮学芸会みたいでてんでお話にならない。実際、東京の大衆演劇というか、もっとシビアにいえばドサ回りの旅一座のヌード版というか、芝居そのものもそのようなもので、舞台におひねりと呼ばれる投げ銭が飛んだり、ファンが楽屋にタバコ、酒などを差し入れするのも常態であった。私なんかその道の先輩(円頓寺劇場の映写技師)に「馴染みになってくるとお弁当を差し入れる」と言われて、今なら狂信的なストーカーが何を入れるやら分からん弁当を差し入れるなど考えられない時代だが、男がせっせと愛する女優さんに差し入れるために弁当を作る姿を想像して頬を赤らめたのだった。平均的な実演の実態を伝えるデータは次のとおり。

「看板女優のいる劇団になるとギャラもよく、たとえば東てる美さんの劇団なんか日立て40万円だと言われている。普通のピンク劇団の日立てが10万円前後と言うから、その4倍は悪くない。普通の場合、男2人、女2人の構成で旅に出る。男優のギャラが1日1万円から1万5千円程度。女優が1万5千円から2万円くらいが相場である。そのほか、テープ出しの裏方さんがいれば5千円程度の出費。これだけ支出した残りが座長の取り分というわけだが、座長はだいたい男優なり女優なりが兼業しているので、まあまあの収入になるという仕掛けである。1日、3~4回の舞台。土曜日は6回。その間に食事や洗濯もすれば、近くの喫茶店などへ出掛けて生命の洗濯もする。人気のある久保(新二)劇団など、こうしたヒマを利用して別の劇場もこなしたりすることになる。要するにかけもち」(「ザ・ロケーション」、津田一郎著、晩聲社、1980年)。

ピンク映画の通史を読むと、ほとんどの書籍や年表では、実演は1968年頃から始まり、1969年には本格化したとされている。そしてピンク映画に実演の形で連鎖劇を最初に持ち込んだのは、ピンク映画の草分け的存在であるベテラン関孝二監督であるというのも、それらの通史に書かれており、また関孝二自身の次のような証言もある。
「映画のスクリーンの途中で、ストーリーを俳優に実演させる“連鎖劇”もぼくがはじめてやりました。これなど、いまの谷ナオミや乱孝寿の劇団の実演のはしりですよ」(「週刊大衆」1978年7月6日号)。
関孝二の言う連鎖劇を導入した最初の作品というのは『秘密クラブの女』(70)のことらしい。「成人映画」1970年2月号には、先に静岡、沼津で上演したら好評だったので、東京でも上演するのだという記事がある。


「成人映画」1970年8月号広告
同じく関孝二監督作品では、『蛇淫の館』(70)の広告を見ると、「「異色映画と立体実演の惑星! また一つ誕生!!」という見出しで「ぶちかます決定的連鎖劇 『蛇淫の館』を第1作に!」「関孝二監督が放つウルトラジャンボ篇!!」「裸の美女が……ブルルンとボインをふるわせて客席へ!! 好評また絶賛の立体実演!!」というコピーが踊る(「成人映画」1970年8月号)。 おそらく関孝二のやった連鎖劇とは、その頃流行していたピンク映画の「映画と実演」スタイルに、サイレント時代からあった連鎖劇のスタイルを加味したものだったのだろう。実際には、それ以前からピンク映画館における実演と映画はあったのだから。
少なくともそれらに先立つ1965年10月、浜松のストリップ劇場でピンク映画女優たちが集まって劇団「赤と黒」を旗揚げして実演を行っている。この公演は大好評を得て、その後、全国のストリップ劇場やピンク映画専門上映館で巡業し、翌1966年3月には東京池袋のシネマ・リリオで1日3回、1時間の実演をしている。好評につき、しばらくシネマ・リリオでは劇団「赤と黒」の実演を付けて映画上映をしていたようである。その後、劇団「赤と黒」はほかの劇場にも進出を果たす。この劇団は、確認できる限り、1968年半ばまでは活動したらしい。ちなみに、ピンク映画から日活ロマンポルノに転身し、その第1号のスターとなった白川和子は、この劇団の出身。そして1969年には一挙に「実演と映画」というスタイルは流行を見せるようになる。

しかし、どこまでが「実演」で、どこまでが単なる「アトラクション」で、どこまでが「ストリップ」や「ヌードショー」なのか。あるいはまたどこまでが「連鎖劇」と呼べるのか。その境界線はきわめてあいまいであるから、その定義づけも、いつからいつまでという年代確定も正確にはできない。 毎日新聞社の学芸部で映画欄を担当していた松島利行によれば、ピンク映画黎明期の『野生のラーラ』(63)では、「上映が終わると、ヒロインの女ターザンを演じた女優が全裸で舞台に現れ、最前列に出てきて踊るでもなく歌うでもなく右に左に移動した」(「日活ロマンポルノ全史―名作・名優・名監督たち」、松島利行著、講談社、2000年)という記述がある。このアトラクションを実演と呼ぶとするならば、ピンク映画館における実演はピンク映画黎明期から存在したのではないか?
そうした疑問を解く上で、演劇評論家の神山彰の指摘は示唆に富んでいて興味深い。

「戦中・戦後の上映ポスター、チラシ、新聞広告等を見ると、「実演」との併映が時折、目に付く。ピンク映画でも、日活の「ロマンポルノ」以前は「実演付き」が売りものの映画館があった。私などは、そこでは映画ではなく、物珍しい「実演」を見たさに何度か通った。ここでいう実演とは何か。この定義は意外に難しい。歌舞伎や新劇、新派、新国劇等々そのものの「上演」を「実演」とはいわない。「連鎖劇」時代の映画でない部分や、一時歌手が映画の間に歌ったりした「アトラクション」も「実演」というから、その初出は明らかにしないが、矢野誠一によると(註:「女興行師 吉本せい―浪花演芸史譚」、中公文庫、1992年)、昭和13年(1938年)映画興行の3時間制が実施され、上映本数制限による苦肉の策として「映画と実演」というシステムが登場したという。ただ、それ以前から「実演」と映画との組み合わせ興行はある。ともかく、映画の記憶と継続しない「演劇」を「実演」とはいわず、逆に「実演」だけの興行でも、観客は映画的記憶を喚起するものを、便宜的に、あるいは興行上の宣伝効果から「実演」と呼んだのかもしれない」(「剣を奪われた時代劇 股旅、芸道、そして実演」、神山彰著、「占領下の映画-解放と検閲-」所収、森話社、2009年)。
ピンク映画の場合でも、映画と実演の併映もあれば、その実演演目をそのまま地方のストリップ小屋で上演して、かけもちすることもあるのだから、「映画と実演」のうちの「実演」がなんなのか、ますますなにをもってそう呼ぶのか、境界線はあいまいなものとなる。

しかし東京では少なくも1973年頃には実演はあまり見られなくなったというのが通説である。だが、地方のピンク映画専門館やストリップ小屋へのドサ回りという形で実演は続けられ、逆に1973年頃を境に70年代後半までむしろ地方ならではイベントとなる。ピンク映画、そして日活ロマンポルノの大スターだった谷ナオミは名古屋のテアトル希望を第二の故郷のように大事し、1979年に銀幕を引退するまで毎年のように来演した。名古屋にあるストリップ劇場にピンク映画の俳優で作った劇団が来演して実演をするチラシも1980年前後に見た記憶がある。現在でも、ごく少数だがピンク映画の俳優たちは劇団を率いて、地方のストリップ小屋を回り、ドサ回りの実演を続けている。

山本晋也作品の常連であり、現在も自ら劇団を率いていてドサ回りをしている久保新二は、1978年、次のように書いている。
「関東・関西のストリップ劇場では、今や実演ブーム! 先日も大阪で俺の率いる“宝石座”の公演を打ったところ、なんと8つものの劇団と出っくわした。その各劇団が全部、“にっかつポルノスター来演!”だもんな」(「ZOOM-UP」1978年8月号)。

次は“犯し屋”の異名を取り、70年代後半にはご多分に漏れず、自ら劇団を組織して、ドサ回りをしていた男優・港雄一の1978年の証言。
 「劇場? ストリップ劇場がほとんどだネ。だからファンの中にも入場しにくい人がいるみたいだ。劇場の前をウロついているからすぐ解る。芝居は一日3回やる。土曜日はオールナイトだから5回ぐらいかナ。スゴク重労働だよ。だから一つの小屋(劇場)で10日が限度だナ。(略)東京で芝居をやらないのかって……ウ~ン、東京のお客サンは、どうも反響がないんだナァ。冷静なんだ。それと比べると地方のお客サンは素直に感動を表現してくれるから恐ろしいネ」(「ZOOM-UP」1978年5月号)。


鶴舞劇場(1998年頃)
私がストリップによく行った時期というのは高校生時代、つまり1970年代半ばから後半にかけてだが、前出の円頓寺劇場の映写技師の兄ィに招待券をもらって行った中村大劇を始め、名古屋銀映(のちライブシアター銀映)、鶴舞劇場、カイケイ座などがある。そのほかに名港文化、大曽根ミュージックなどのストリップ劇場があり、これらは名前からも分かるように、ほとんどが創立当時は一般の映画館で、それから映画がダメになると成人映画館に転身し、さらにストリップ劇場になったコヤである(カイケイ座は寄席や浪曲などの演芸場だった)。一時は金髪外人ショウで盛り上がっていたようだが、入管法改正以降閉館になったコヤも多い。
上京した頃、東京のストリップはどないなってるんやろとあっちこっちに見に行ったが、すでに1980年代半ば、踊り子はAVギャルに占拠されていた。DX(デラックス)歌舞伎町のお正月興行なんて素人祭りだもんね(ステージに乱舞する素人ギャル50人って、あんた!)。もちろんピンク映画人の実演なんかあるはずもなかった。保守的で大衆的な浅草ロック座を除き、そこそこ過激でありながら、なんとか昔をしのばれる劇場は渋谷百軒店にある道頓堀劇場ぐらいか。まあ、私しゃ永井荷風じゃないから、カネもないし、すぐに飽きてしまった。結局、ピンク映画人の実演も売れない漫才師のコントも見たことがないという不幸。
ほかの例では、大阪に拠点を置き、1983年からゲイ・ピンク映画を製作しはじめたENKプロモーションは、大阪でゲイ専門の映画館を経営し、年に数度は映画の合間に男性ストリップショーを行っている。東京近郊では横浜にあるゲイ専門の成人映画館である光音座でも、同様に定期的に男性ストリップショーをやっている(ENKも含めて、まだ、やってるのかね?)。しかし、果してこういうのも「映画と実演」と言っていいものなのだろうか。たぶん、違うんだろうな。

ともあれ、その時代、映画も実演と同じように一回こっきりの「出会い」であり「体験」であったことは確かである。ビデオやDVDは確かに便利だし、おっさんになった現在、億劫さもあり、DVDで済ますことも多いし、それでしか見られないものを手軽に引き寄せることもできる。その一方でどこかで失われたものは大きいという自覚はしているつもりだ。エロについてもロマンポルノを駆逐したアダルトビデオは性描写を過激にしたが、その一方で性のインスタント化にも拍車を駆けた気がする。なんだかみんなが自分サイズの穴に閉じこもっているヤドカリみたいで、本来悪所に出かけなければ見ることができなかった映画の祝祭性や秘匿性、不良性はそぎ落とされ、またそうした映画詣でに付随する悪所での出会いやハプニング、いってみれば人生修業をも奪われてしまった。いいとか悪いとかを言うのではない。ただそうした時代ではもうないということだけだ。ピンク映画と実演とは、そうした時代の映画のあり方をシンボライズする「体験」としての映画の原点だったような気がしている。

以下、続く。

Text by 木全公彦