名古屋のマキノ(第三篇)
最初はマキノ雅広生誕百年のときに、「なんでマキノ中部撮影所があった名古屋が盛り上がっていないんだろ?」と思ったのがきっかけであった。そのとき、昔から漠然と考えていた疑問も再浮上してきたので、ちょうどいい機会だからと、一面識もない地元の映画史家に電話をして、いろいろ質問をしてみたのである。

電話に出た相手は、とうに80歳は超える高齢にもかかわらず声に張りがあり、こちらの質問に間髪いれずに答えてくれた。疑問は私が少年時代から通っていたマキノ劇場についてである。80年代初めまで、名古屋駅の南にある笹島交差点から太閤通り沿いに入ったところにあった名画座で、その跡地に現在のゴールド劇場/シルバー劇場ができた。
名画座といっても、正確には邦画の二番館、三番館といったところで、当時は洋画も邦画も封切りは二本立てが常態であった名古屋では、二番館や三番館では三本立ては当たり前、ときには四本立てさえもあったので、その例に漏れずマキノ劇場も70~80年代限っては三本立てであった(それ以前は知らない)。
だが、中学をさぼり、学生服を駅のコインロッカーに預けて、公衆便所で着替えて通った映画館の名前に「マキノ」があることを、のちになってマキノ中部撮影所とどのような関係があるのか考えるようになり、その疑問がマキノ雅広生誕百年で改めて浮上してきたのである。そこでちょっと電話に先立ち事前に調べてみた。

 《マキノ劇場 中村区太閤通1-56 292席(開館当時は330席)
1956年7月31日に古川興行が邦画再映館としてオープン。代表は古川為三郎、支配人は山之内孝一。》

古川為三郎(1890~1993)は、今は無き日本ヘラルド・グループの創業者で、地元名古屋での名士だった人。貴金属を扱う商店から身を起こし、東京に進出したものの病気で養生することに。折りしも大正の金融恐慌。そんなとき古川は日銭の入る仕事として映画館に注目し、1921年31歳のときに大須に「太陽館」を開館。続いて「帝国館」、「太陽館」の近くに肉鍋屋を開業(のちの資生堂パーラー)、洋画専門館「大勝館」を開館する。戦後は1946年に「今池国際劇場」、「メトロ劇場」を開館し、1950年には伏見に「ミリオン座」を開館。息子・勝巳(1914~1986)が1953年に外国映画配給会社「欧米映画」を設立し、1957年には「ヘラルド映画」と改称し、映画のみならず、ヘラルド・フーヅ(ベル・ヘラルド)、ボーリング、貸しマンガ、ローラースケート場など、60~80年代の名古屋の若者文化に多大な影響を与えた。もちろん『地獄の黙示録』や『乱』に巨額な製作費を投入したことも忘れてはいけない。『小さな恋のメロディ』の字幕を担当して以来、『地獄の黙示録』で大役を担い、その後「字幕の女王」として君臨するナッチもまさか大恩を忘れてはいないだろう。その古川為三郎が「マキノ劇場」をオープンさせたのである。

「なぜ?」というのが素朴な疑問としてあった。そのことを地元の映画史家に訊ねてみた。すると、「マキノ雅広さんのお姉さんの勝子さんが嫁いだ竹本さんのところが持っていた劇場を古川さんが引き継いで、戦後再建したもの」だと言う。「名古屋の映画興行は、竹本さんが大須にいくつも映画館を持っていたときが全盛時代のはじまり。その対抗馬として古川さんが登場して、古川さんも大須に映画館を作ったでしょ。そんな関係で、戦前に竹本さんが持っていた映画館を古川さんが引き継いで、再建したのがマキノ劇場だぎゃ」。そんなはずはない、と私は反論してみた。「だって、マキノ中部撮影所があった道徳町と笹島じゃ地理的に離れてすぎているし、念のため映画館ができたころの、つまり1950年代初めの古地図を調べてみたんです。そうしたら、あの辺りは当時〔中村区牧野町〕という町名だった」。別に年寄りをいじめるつもりはない。ただ事実を伝えただけである。ところが老映画史家は「クッ、クッ」と電話の向こうで笑い、「まあ、そうだわな。でもそう考えたほうがロマンちゅうもんがあるじゃないきゃあも。竹本さんと古川さんはまんざら面識のない仲ではなかったから、そういう可能性もあるってこったわ。あんたも映画を好きなら伝説を信じなあかんわ」としゃーしゃーと言われてしまった。まったくこんなところでジョン・フォードを持ち出されるとは思ってもみなかった。

さて。結論的にはやはり「マキノ劇場」は「中村区牧野町」に建てたからそう名づけたと考えるのが妥当であろう。だが、老映画史家の言う「そうあったら面白い」という空想も面白い気がする。第一、古川が映画館経営に乗り出した最初の映画館「太陽館」は、名古屋におけるマキノ映画の常設館であったのだから。
それに先にも書いたが、今でこそヘラルド映画はなくなってしまったが、1980年代まで名古屋に住んでいる者にとってヘラルド映画とは、単なる地方の配給会社以上のものがあったからである。ちなみに1988年の米経済誌フォーチュン誌によると、当時98歳だった古川為三郎のことを「世界最高齢の富豪」として海外に紹介している。その資産4兆5000億円。1993年103歳で永眠。

老映画史家への電話を終えて、受話器を置いた私は、脳裏に「マキノ劇場」のありし日のことを思い浮かべてみた。名古屋駅からマキノ劇場に行くコースは二通りあった。笹島の交差点から太閤通り沿いに歩いて行くコース。もうひとつは、名古屋駅構内を突っ切って新幹線改札のあるほうから、エスカ地下街を抜けていくコースである。私はたいてい後者のコースでマキノ劇場へ通った。というのも、名古屋駅西口の通称太閤通口は、今でこそホテルやビッグカメラがあって、多少拓けているが、子供の頃、新幹線口の西口から出た辺りはちょっと怖い雰囲気だったから、ちょっと不良になったような気がしたからである。

私が小学生だったころ、まだ怪獣映画とハマーフィルム以外の映画に本格的な覚醒をしていなかった時代のことであるけれども、盛んにその怖い場所にクラスの友人と連れ立って、よく行った。その時代の少年の例に漏れず切手少年だったので、中央郵便局で記念切手のシート買いをしたあと、駅西にある切手屋を覗くためだった。エスカ地下街ができたのが1971年12月。それでもやはり人気(ひとけ)のない駅西はどこか怖い雰囲気があった。ちなみに名古屋は地下街がやたら発達していて、国内で最初の地下街サンロードができたのも名古屋である。戦後の街作りが百メートル道路など道路優先でされたことから地下街が発達したのだとも言われている。それにしても人がごちゃごちゃ歩いている駅東のサンロード~メイチカ~テルミナに比べ、駅西のエスカの閑散した様子は、帰省のたびに冷やかしに行く若松孝二が経営する映画館「名古屋シネマスコーレ」に行くたびに体感するが、それでも小学生だった当時からすると、随分俺もおっさんになり、街も変わったと、ハードボイルドな気分になる。それはともかく、中学に入るとマキノ劇場はいうに及ばず、ここのコースを通って、太閤通り沿いに歩いて「オーモン劇場」「中村映劇」「SK東映」に通ったのであった(東映・日活・大映系の名画座であった「SK東映」は毎週通った)。

さて、当時、つまりエスカ地下街ができる前、いや正確には東海道新幹線が開通し、西口にまがりなりにも乗降車する人がくるようになるまで、この辺りがどんな様子であったかを描いた映画があるので、ついでだから紹介しよう。1957年松竹製作の『淑女夜河を渡る』がそれである。監督は内川清一郎。主演は高千穂ひづる、大木実。もともとは「すがおグループ」の企画によるものである。

「すがおグループ」について説明しておく。五社協定に縛られないで俳優たちが自由に映画の企画・製作していこうというグループでは、有馬稲子・岸惠子・久我美子の「にんじんくらぶ」が有名だが、「すがおグループ」もそのひとつ。メンバーは高千穂ひづる、大木実、山本富士子。代表取締役は山本勝代(山本富士子の母)、常務取締役に二出川延明(「俺がルールブックだ」という名ゼリフで有名な野球審判にして、高千穂ひづるの父)、資本金200万円。
『淑女夜河を渡る』の原作は、名古屋のスポーツ紙の新聞記者であった作家・小野稔の「名古屋の西と東」である。前年の1956年に松竹が製作した小林正樹の『あなた買います』の原作者でもある。『淑女夜河を渡る』の脚色は、内川清一郎、関沢新一、そして小野稔である。原作は映画化の翌年単行本になり、映画と同名の「淑女夜河を渡る」(東京文藝社)として発売された。映画化されたものは『女だけの街』(57、内川清一郎)に続く「すがおグループ」が企画した映画になる。

『淑女夜河を渡る』は、まだCS・BSでも放映されていないし、東京でもおそらく15年以上上映されないが、松竹にはプリントはあると思うので、名古屋府政四百年記念イベントとして、ぜひ上映してほしいとリクエストしながら、映画の紹介をする。以下あらすじ(プレスのコピペをもとに補足した)。

形身分けの二十万円を元手に一旗上げようと、知多半島で漁師の営む家の次男坊飯田憲次(大木実)は名古屋に故郷から出て来た。一方、木村房江(高千穂ひづる)は都会にあこがれて瀬戸から名古屋に出て来た。闇のマーケットが並ぶ駅西に降りた憲次は、気の緩みから虎の子の20万円の入ったバッグを置き引きに持っていかれる。地元のゴロツキ須藤(植村謙二郎)の須藤一家の仕業で、それは駅東にあるインチキ投資相談所に資金になってしまった。自棄の憲次は、誘われるがままに彼らの仲間に落ちていった。名古屋駅周辺を仕切るヤクザのボス石黒(河津清三郎)は斎藤(本郷秀雄)と滝川由子(福田公子)らを操って、投資と社交の美名に荒稼ぎしていたが、経済界の大立物千石(十朱久雄)が有名な漁色家である事を知ると、彼の歓心を得んがため生贄にする美貌の処女を捜す。その時、偶然千石の目に止ったのが、由子の家で女中として働いている房江である。大都会の忌わしい反面に気付いた房江が一刻も早くそんな絆から脱け出ようとした時にはすでに遅く、今は須藤一家の身内となった憲次のために全てを奪われてしまった。房江だけは真面目な生活をさせてやりたいと、妹同様に面倒をみていた由子が、やっと彼女をみつけた時は、笹島のガード下で春をひさぐ夜の女になっていた。だが何かと房江を庇ってやる憲次の優しい瞳に何時しか愛の燈が灯って、二人は泥沼から足を洗う資本が出来るまではどんな苦労にも耐えてゆこう、と固く誓い合うのであった。そして由子の計らいで、二人は由子の兄の松吉(田崎潤)にかくまってもらった。そのため松吉と須藤一味の間に争が起った。妹由子のためにも、将来ある二人のためにも、少しでも役に立つのならと、昔のヤクザに戻った松吉は、単身須藤一味へ殴り込みに行った。パトカーのサイレンを耳にしながら、松吉救援に駈けつけた憲次は、ピストルを構えた須藤にぶつかっていく。銃声が途絶えて、起き上った憲次の手には手錠がはめられていた。

なにしろ見たのがずいぶん前、三軒茶屋にスタジオamsがあった時代のことなので覚えていないところも多いが、最初に名古屋駅が俯瞰で映しだされ、そこを行き交う雑踏にテロップで「日本第三の都市、名古屋――」と出て、そのすぐにだか最後だったかに「今日もまた大都会の渦に巻き込まれた犠牲者がひとり」と出て、随所に名古屋を大都市として扱いながら、ジュールス・ダッシンの『裸の街』をはじめとするソーシャル・セミドキュメンタリーのようなロケ撮影を、名古屋で大ロケーションを敢行し、街頭ロケなども多用しているのが目を引く(随分、流行しましたな、この手法)。
大木実が降り立った駅西の様子は、まるで戦後の闇市がそのまま残っているようで、雑然とし、やくざがたむろしている。田舎から名古屋に出てきた大木実は、すぐにここで全財産の入ったバッグを盗られ、愚連隊の下働きになるが、絶対に駅東には行けない。駅東には河津清三郎の愛人福田公子が経営する宝石店があり、こっちはまるで銀座かと見間違うほど。映画では、駅西を戦後の闇市がそのまま残る、まるで『酔いどれ天使』のマーケットのように描き、対して駅東を高度成長を遂げんとするビルが建ち並ぶ街として、徹底した対比で描く。誰のセリフだか忘れたが、駅西のどん底から這い出そうとする大木実に向かって「俺だって駅東に逃げようと思ったさ。でも笹島が精一杯だった。そこで掴まってしまった」と言い放つセリフがあり、名古屋人としてはひとり大爆笑した。

そもそも高千穂ひづるは瀬戸から名古屋に上京するのである!(爆)。大木実は知多半島で、確か半田あたりから名古屋にやってくると設定なのである!(再び爆!)。そして全編を覆う名古屋弁のいい加減たるや、まともなのは大木実の母親を演じた滝花久子ぐらいが「きゃーも」「なも」とそれらしく聞こえただけで、まああとはテキトー。いや田崎潤を忘れておった。彼はすっかり桶屋の鬼吉である。
それにしても半田はもちろん瀬戸が随分田舎で、生き馬の目を抜く名古屋に対して、本当に牧歌的なのである。とにかく名古屋出身者・在住者としては、1950年代までの新幹線の通る時代以前、名古屋の西と東では、いかに違ったのか知るだけでも必見の映画であるのだ。それがあるから1980年代になって予備校が乱立して、それらしくなるまでいかにこの辺りが怖かったか分かるというものだ。太閤通り沿いにちょっと行けば、80年代まで面影が残る旧青線の特飲街である(向井寛の『四畳半色の濡衣』はここでロケ。当時助監督だった佐藤寿保にいろいろ面白い話を聞いた)

そこで、『淑女夜河を渡る』であるが、気になってちょっと当時の批評を調べてみた。
「この作品はそれでもなかなか一生懸命に題材と取り組んでいるから、とに角観客に訴えかける力は持っている。小野稔の小説の映画化だが、『あなた買います』と同じように、現代社会を動かしているからくりというものを浮き彫りにさせている点は面白い。但し脚色はやや明晰味に欠け、それをすっきりした形で表現できなかったのは残念だが、インチキ経済相談の親玉(実はボス、河津)だとか、淫売屋や愚連隊の親玉(植村)だとか、石黒の情婦である洋品店マダム(福田)だとかいう社会の裏組織を形造る人間たちの絡み合いを、いま一歩切り込んで解明してほしかったと思う。就中、全編に大都会を紹介するドキュメンタリー・タッチは一寸効果をあげている」(「キネマ旬報」1957年9月下旬号、田山力哉)

ほう、なかなか好評。いや映画批評といえば辛辣さが持ち味であった時代、今でこそ名作と言われる作品もクソミソなので、この程度でも好評なんだよね。

ところで、この映画がなんで「名古屋のマキノ」なんだって?

河津清三郎と田崎潤が出演しているじゃないっすか!  なんてね。

老映画史家に伝授されたように、想像力を働かせて、この名古屋を舞台にした映画と、マキノ劇場と、マキノ雅広が結びついていると思うのは、ロマンがあってなかなか面白いではないか。



以下、続く。

Text by 木全公彦