「妄執、異形の人々 II」特集の裏側で
2007年、シネマヴェーラ渋谷で行われた特集上映「妄執、異形の人々Ⅱ」の裏側について、少し書いておきたい。

■『怪談せむし男』が上映されるまで


この特集は、2006年にシネマヴェーラ渋谷で上映された「妄執、異形の人々」が好評だったことを受け、企画された特集上映の第2弾である。第1回の特集上映は、私がシネマヴェーラ渋谷の館主である内藤篤さんに企画を持ち込んだところ、ちょうどそういう企画を考えていたから、是非やりましょうと快諾をいただいたことからはじまった。「持ち込んだ」と言っても、企画書を書いたわけではなく、最初は偶然内藤さんと渋谷で会ったときの立ち話がきっかけである。それまでたった一度の取材でしか面識がないチンピラの意見を受け入れていただいて正直驚いたが、そのことは今も感謝している。

名画座は年々減っているが、いわゆる〈カルト映画〉の上映に力を入れていた大井武蔵野館、インディペンデント映画やピンク映画などの上映も精力的に行っていた中野武蔵野ホールが相次いで閉館したのち、私は〈いかがわしい映画〉を上映する名画座がなくなってしまったと常々考えていたのである。
映画史に大書される誰でも知っている名画や名監督の特集だけではなく、監督の固有名詞で語られることのない胡散臭い題名のプログラム・ピクチュアを、監督や役者の固有名詞に縛られない形で特集上映ができないものか、失われてしまった映画館の持ついかがわしさを取り戻すような企画上映ができないものか、それにこの手の特集上映なら、縛りが緩いから、たとえばピンク映画も黒澤明の『生きものの記録』までも一緒にしてごちゃまぜで上映することができる、2本立て興行を基本にするシネマヴェーラ渋谷ならではそういったアンリ・ラングロワ的な無謀な組み合わせも可能だ、〈いかがわしい映画〉であれば、ビデオやDVDになっていない作品も多いし、〈カルト映画〉の冠にひかれて、映画館に足を運んでくれる客も多いだろう、などと思ったのだ。 実際、石井輝男の『恐怖奇形人間』だって、大井武蔵野館が80年代から繰り返し上映したからこそ、カルト映画の中のカルト映画として、現在では誰もが知る映画になったのである。

しかし実のところ、私が長年観たいと思っていた佐藤肇の『怪談せむし男』が、その題名のためにビデオソフト化はもちろんのこと衛星放送等でも観るチャンスが絶望的である以上、なんとかニュープリントを焼いて上映してもらう口実を作る必要があったというのが、私の本音である。すでにネットでイタリア語吹き替え版によるアメリカ製の海賊版ビデオを入手していた私は、人物の輪郭もはっきりしない『怪談せむし男』を観て興奮、高橋洋さんら知人たちにも配布したところ、とくに高橋さんは私以上に興奮していた。私はますますちゃんとした形でオリジナルの『怪談せむし男』を観たくなった。

特集上映に向けて、内藤さんとともに、上映作品のセレクト、権利元の連絡先、上映プリントの有無などを調べたが、その過程で『怪談せむし男』の上映プリントはないため、東映に依頼して新たにニュープリントを焼くほかないのだが、モノクロ作品であるため、通常のカラー作品より倍の予算がかかることが分かった。打ち合わせ段階で、私は『怪談せむし男』のほかに、観たい作品として山口和彦の『怪猫トルコ風呂』を挙げていたので、内藤さんは「『怪猫トルコ風呂』なら値段は半分ですが、それでもあえて『怪談せむし男』を焼くメリットはありますかね。両方は焼けないので」と私に迫った。そう言われると正直困る。両作とも長年観たいと切望していた作品であり、題名ゆえに容易に観られない作品だったからである。もし高い値段を払ってニュープリントを焼いて、観てみたらガッカリでは困るのだ。責任は取れない。決して安くはない費用を自分が負担するわけではないからだ。そこで私は「今回は『怪猫トルコ風呂』を焼き、この特集の集客の結果を見て、翌年本特集のパート2を行うことができたら、そこで『怪談せむし男』のニュープリントを焼く」ことを提案し、内藤さんに受け入れてもらった。

したがって、実も蓋もない言い方をすれば、「妄執、異形の人々」特集上映は、私が『怪談せむし男』をちゃんとした形で観たいがために、ただそれだけのためにシネマヴェーラ渋谷に持ち込んだ企画であることを告白しておく。その過程で、『怪猫トルコ風呂』のニュープリントが焼かれ、観ることができて、また集客も悪くなかったことは、言ってみれば儲けものだったと言っていいのかもしれない。内藤さんは約束どおり、翌2007年の「妄執、異形の人々Ⅱ」で『怪談せむし男』を焼いてくれることになった・・・。欣喜雀躍。感謝感激。

その間、内藤さんの依頼で、私は「渋谷實特集」「清水宏特集」の企画にも協力し、東京国立近代美術館フィルムセンターが保存する作品を特別に上映してもらうため、たとえば後者では「清水宏特集上映委員会」を作り、どこにも所属しておらず、どことも利益関係にない私が、実行委員長として書面作成・捺印してフィルムセンターに提出する、なんてこともやったのだが、それぞれ少なからず反響があったようで、企画・上映に協力した者としては感慨もひとしおであった。慣れないトークを渋々引き受けたのもこうした私の立場によるものであるが、あれはおまけである。


■青山定司監督『家獣』とは


2007年、初夏だったと記憶する。シネマヴェーラ渋谷の館主である内藤さんから「妄執、異形の人々Ⅱ」をやりたいと打診があった。何度かメールをやりとりしている中で、磯田勉さんにも企画に加わってもらった。すでに内藤さんは約束どおり『怪談せむし男』のニュープリントを焼くと明言してくれていたので、あとは現在上映プリントがありそうな作品を選ぶだけでよかった。 ところがある日、内藤さんが「ネットで検索していたら、『家獣(やじゅう)』という映画があるみたいなんだけど、これって観てます? 〈異形〉にふさわしいんじゃないですかね」と質問してきた。驚いたのなんのって。

『家獣』は1979年製作の16ミリ自主映画(52分)。監督は青山定司。音楽はあの金子マリ&バックスバニーである。私はこれを当時観ている。確かに「異形、妄執の人々」特集で上映するにはふさわしい。青山定司という監督がほとんど忘れられている現在であればなおさらである。私自身、オールナイトで観たこともあり、睡魔と闘いながら観たため、記憶もおぼろなので、改めて観直してみたい気もした。

日本映画データベースの『家獣』の項目

ところが青山定司監督は『家獣』を完成後、その直後に34歳で死去。多くの実験映画作家を生んだイメージフォーラム映像研究所とも、自主映画の登竜門であるぴあ主宰のPFFとも、無縁だったので、フィルムの所在はおろか遺族の連絡先も分からないだろう、と推察された。
そうなると俄然もう一度観てみたくなるのが悲しき人間の性。おかげでその日から青山定司監督の遺族・関係者を探すはめとなってしまった。

『家獣』の解説と青山定司監督に関するプロフィールは、以下である(「世界映画作品・記録全集1981年版」キネマ旬報社刊、日比野幸子執筆/本欄で解説をほぼ全文引用することに関しては事前に日比野さんの了承をいただきました)。

「青山定司(1945年6月30日生まれ)の遺作となった怪奇ドラマで、16ミリ初カラーに挑戦、青山独特の“嗜好”を打ち出したおどろおどろしい作品である。彼は、79年4月、かねて体の不調を訴えながら、この作品の公開日に間に合わせるために完成を急ぎ、無理を重ねた結果ついに東京白金台の東大医科学研究所に入院、開腹手術を受けたのち小康を得て退院、再編集して10月に公開、次回作の構想も新たに映画への執念をみせて闘病生活を送ったが、翌80年5月20日午前4時、直腸ガンのため死去、34歳だった。『追憶』(68)を処女作に、70年初頭から『淋民(たみ)』『是怨伝』『無頼みやこの子守唄』『たろうトウキョウ』『TAKE IT EASY』などの8ミリ作品を発表し、いわゆる今日の自主映画ニュー・ウエイヴの走りになった作家だが、『信天翁』(75、16ミリ・白黒)を経てドラマ志向を強くし、『八月の濡れた太陽』(76)、『美しき玩具たち』(77)を8ミリによる情念の追求ドラマとし、その猟奇趣味の部分を拡大したのが“震撼映画”と銘打たれたこの作品であった。

明治34年、八王子の名家に人知れず守り育てられている双児で奇形の兄妹がいた。下男の重蔵は当主の遺言どおり、この眼のない女児と顔面の下半分が深く陥没した男児に仕え、近親相姦の果てに二人がまたもや女の双児を生み落とすと、家の血を継ぐ彼女たちを献身的に養育する。女の子の一人、志乃は美しい娘に成長。ある日、のぞくことを禁じられている納屋に近づいた彼女は、異形の男親と姦通し、女親は殺され、無残にも食われてしまう。落胆した重蔵は、それでもう一人の少女を軟禁した土蔵に今夜も食事を運ぶ。その少女を、かいま見た女中は雪の中をころげるように逃げてゆく・・・。

家獣となり果てた双児で奇形の両親に腕をもぎとられ脚を食いちぎられる志乃の愛撫シーンは、さながら“家”と“血”のいけにえとしてグロテスクな現実のかなたへ抜けてゆく清らかさに満ちている。下男の重蔵について青山は〈彼は呪われた血のほとりに立ってそれを守っている。それに憑かれたというか同一化したいという気持ちがあるのだが、その血のない者にはそれができない。だから三代にわたって血を守る役目を背負うという、これは愚行なんだ〉というコメントを残している。映画に憑かれた青山は、その“愚行”半ばにして逝った」

当時観た私の印象では、おどろおどろしい雰囲気は横溝正史や江戸川乱歩の伝奇ミステリ小説に通底し、それをもっとグロテスクにした土俗的な感じの怪奇映画で、手作りの造形美術や特殊メイクは、円谷英二にあこがれた自主映画小僧の素顔が浮かんでくるような、それでいて達者な作り手によるモンスター映画という感想を持った。最近は安易に乱発されすぎてあまり好きな言葉ではなくなってしまったが、独特の〈世界観〉があると思ったのである。

『家獣』が製作されたのは、ちょうど情報誌ぴあが主宰するPFFが始まったばかりの頃で、長崎俊一、石井聰互、山川直人、土方鉄人、黒沢清、万田邦敏、山本政志、長嶺高文、手塚真、今関あきよしらが登場し、大森一樹が『オレンジロード急行(エクスプレス)』を松竹で監督して以来、自主映画がマスコミの注目を集めている頃だった。彼らの中でも最も年長でキャリアも古い青山定司の存在は異色だったように思う。マスコミが自主映画に注目していたこともあって、青山定司は彼らと一緒に「平凡パンチ」や「GORO」にレイバンのサングラスをかけた写真付きで『家獣』とともに紹介されていたと記憶する。その一部は私も当時切り抜いて今もファイルに保存してある。

余談なるになるが、あまり知られていないことでところでは、その頃、高林陽一の『本陣殺人事件』や藤田敏八の『もっとしなやかに もっとしたたかに』に出演していた女優・高沢順子(2代目「お魚になった私」の人)も、本人曰く「トリュフォーみたいな」自主映画を作って旧文芸坐で上映したことがある。そのときの「平凡パンチ」の切り抜きも私のファイルにはあるし、大友克洋が監督した自主映画『じゆうをわれらに』の記事もどこかにあったはずだ。森田芳光の『ライブ・イン茅ヶ崎』のあの名高いチラシはもちろんある。のちの脚本家である一色伸幸が青学映研の代表として「小型映画」の座談会に早稲田大学シネ研の武藤起一(現ニューシネマ・ワークショップ主宰)と一緒に出席したり、ずっとあとになってホイチョイ・プロを主宰する馬場康夫がPFFの応募者の中に名前はあったものの一次予選を通らなかったのもこの時代のことである。

脱線ついでに書いておくと、ぴあについては私と同世代の坪内祐三が「一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」」(文藝春秋刊)の中で一章を設けて、自身の回想を交えて論じているが、東京在住だった坪内祐三と80年代半ばまで地方都市にいた私とでは、その受容の仕方も自主映画の様相も情報のあり方もかなり異なっていたことだけは書いておこう。ただし、現在のようにミニシアターなどなく、貸しホールも少なく、たいていは自主映画といえば喫茶店で上映が行なわれていた状況には、東京も地方も変わりはないと思うが。 しかしながら、私は70年代からたびたび上京しては当時飯田橋にあったぴあの試写室に潜り込んで、懇意にしていたある方の好意でさまざまな映画を見せてもらうという運に恵まれた。ぴあも今よりずっと開放的だったのである。その頃のぴあの試写室は、胡散臭い人たちや私のような鼻垂れ小僧までが自由に出入りし、まるで自主映画作家や若い映画愛好家たちの解放区のように見えた。

さて、青山定司監督とその作品について、補足しておく。
青山定司監督は「1945年6月30日、旧満洲・大連市生まれ。少年時代は映画館の看板屋になろうと思っていた。『ゴジラ』に魅せられて熱狂的な円谷ファンとなり、68年駒沢大学経済学部卒業後、青山デザイン専門学校アニメ科に学ぶ。8ミリによる処女作『追憶』(68)に撮るが、カメラの故障で雪ばかりのフィルムができた。以降、彼の作品には何らかの偶発性がついてまわる。70年、同校の学園紛争が『たろうトウキョウ』(71)を生む。求めて求められぬ他者との関係を、血涙噴き上げるような仕上がりの風景ショットを集積することで表現しているが、凶暴なまでに純粋な非行少年の眼差しをもった坂英之との出会いであった。

家業の仏教美術の仕事を携わり、日映美術の撮影助手、コピーライターなどの職を転々としながら、同じ坂英之主演で『TAKE IT EASY』(74)を撮る。交友のあるアマチュア8ミリ作家60名余の協力を得たこの作品では、初めてカメラを離れ、それまでのような、内向する感受性を主情的な風景にきりかえしていく一人称手法からの脱出を試みた。続く『信天翁』(75)は初の16ミリ作品。ヒロインを演じた桂木梨絵はまもなく『祭りの準備』(黒木和雄監督)、『凍河』(NHKテレビ)などに出演し、プロの女優となった」(「日本映画監督全集」キネマ旬報社刊、日比野幸子執筆より抜粋引用)。

なお、青山監督の早すぎる死の数ヶ月前に、監督の愛妻であり、映画製作を裏で支えた三江子夫人も若くして亡くなっていることを付記しておく。若い夫婦が立て続けに30代で病死するのは単なる偶然だろうが、遺作になった『家獣』のことを考えると、奇しき因縁にぞっとする。

内藤さんのほんのひとことがきっかけとなって、「そういえば自主映画の監督たちの作品って、どうなってるんだろう」と思った私は、この早逝した監督の関係者・遺族を求めて追跡調査を行なった。な~に、こういうのは仕事で慣れている。紀伊國屋書店映像情報部がリリースしているDVDでも、依頼されたわけでもないのにしょっちゅうこんなことばかりやっているしね(とあからさまに自慢)。 というわけで、すぐさまこれらの解説文を執筆なさった旧知の日比野幸子さんにメールし、同時にぴあのPFF事務局の森本英利さんにも連絡した。日比野さんからは当時のスタッフの連絡先を教えてもらったが、みんな青山監督亡きあと自主映画から足を洗い、正業に就いているとの返事。森本さんからはPFF応募作品ではないので分からないとのことだった。日比野さんから教えていただいた2人の元スタッフに連絡したが、やはり手がかりなし。逆に最近の映画事情やおもしろい新作は何か、なんてことを聞かれてしまった。

ケータイもインターネットもない時代、自主映画の監督たちはどのように上映会の告知をしたか。あるいは自作をレンタルしていることをどのようにして告知していたのか。そう考えてみたが、30年近く前の自主映画の上映会のチラシを入手するのは困難だった。だが、もうひとつの手段がある。情報誌と雑誌「小型映画」である。当時、日比野幸子さんが編集長を務めていた「小型映画」のバックナンバーに、宇田川幸洋さんが『家獣』について長い賛辞を書いていたと記憶していたが、その記事は発見できなかった。まあ、次の機会にじっくり探してみよう。次に、キネ旬、ぴあ(当時は月刊)などのバックナンバーをあたり、私は当時青山監督が住んでいた渋谷のアパートを突き止めた。電話番号が載っていたので(個人情報保護など考えもしない時代だったのある!)、電話してみたが、当然のことながら不通。アパートも取り壊されていた。

今度は、青山監督が亡くなった直後、友人有志たちが設立した〈青山定司フィルム・ライブラリー〉の連絡先が〈ことばとぶんかセンター新宿日本語学内・●●●まで〉と記載されていたことがキネ旬の増刊で分かったので、その情報を頼りに、すでに〈ことばとぶんかセンター〉なる組織はないだろうけれども、その●●●さんが今はどこかの大学教授で言語学か日本語の教鞭を執られているに違いないと確信めいた予感があったので、その平凡な名前に半ばあまり期待せず、名前と適当な言葉を並べてググってみた。同姓同名の人がY県のさる大学で日本語学の教授として教鞭を執っており、ホームページを運営しているところに行き着いた。幸いにもメール・アドレスを公開なさっていたので、メールしてみた。翌日、返事がきた。結果はやはりこちらの予想どおり、その●●●さんご本人であった。だが、すでに自主映画から離れて30年近く経っており、東京を離れて当地の大学に赴任してきてからもかなりの年数が経つので、遺族の連絡先もフィルムの所在も分からないというメールでのお返事であった。


■『家獣』を求めて


こんな状況下でも、まだチャンスがあると思ったのは、ほかでもない。先に引用した監督のプロフィールに書かれている「家業の仏教美術」というくだりである。たぶんこれって仏具店のことなんだろうと思い、さらに日比野さんの書かれた原稿を確認し、もう一度日比野さんに連絡すると、渋谷・恵比寿辺りに青山監督の実家である仏具店があったことが分かった。NTTの番号案内を使って六本木まで範囲を広げて調査を続けたが、屋号が分からない上にすでに廃業した可能性もあり、かたっぱしらから電話してみたが、空振りだった。だがピンと閃くものがあり、仏具店の組合のようなものをネットで調べたところ、そこの専務理事をしている方が「青山」姓だったので、もしやと思って記載されている電話番号に電話をしてみた。
電話に出た従業員の方から社長に取り次いでいただき、社長に「亡くなられた青山定司監督のご遺族の方ですか」と尋ねてみた。電話の向こうの声はちょっと声を低くして「それは弟に間違いないですわ」とおっしゃった。
BINGO!
私はやっと遺族を探りあてたのである。それもほとんど自分の家を出ずに、たった4日間で! 私は自分がバロネス・オルツィ書くところの「隅の老人」ならぬ「隅の中年」(笑)になった気がして、ちょっと得意だった。つくづく便利な時代になったものである、と《そのときは》思った。

仏具店の主人は、店を10年ほど前に恵比寿から現在のところに移転したと告げ、「うちの女房のほうが弟を可愛がっていましたから、今代わります」と言って、青山定司監督の義姉にあたる女性に電話を代わった。私が事情を話すと、彼女は「義弟のことを調べていただき、また映画を上映しようとしていただけるという気持ちはありがたいのですが」と言った。そして残念そうに「ですけども、義弟が死んだあと、フィルムもチラシも全部処分しました」と告げた。それは本当に残念そうな感じの声だった。「処分というのは廃棄、つまり捨てたということですか?」と私。「そうです」という無情の返事。私の頭の中は真っ白になり、ただ空しい音だけが響き渡った。が~ん! が~ん!

私はその経過をメールで逐一内藤さんに連絡していたのだが、内藤さんは結果を聞いていつものポーカーフェイスであまり残念そうでなさそうに残念がった。「それでは仕方ありませんね」と内藤さんはおっしゃったが、私の中にはなにかやりきれない思いが残った。たかが30年前の映画がもうこの世に存在しないのである! そんなことずっと以前からも分かっており、知っていたはずなのに、フィルムの、特に自主映画関係のフィルムの管理がいかに個人レベルに留まっており、今も散逸の危機にあるのか、改めて痛感させられ、どうしても諦めきれなかった。


■新たなる展開


私は事の次第を「妄執、異形の人々Ⅱ」の共同企画者である磯田勉さんに話した。そうしたら彼はこっちが唖然とすることを口にした。「『家獣』なら確か1980年代中頃か後半頃に中野武蔵野ホールで上映しているはずです。当時の支配人である細谷(隆広)さんに聞いてみれば?」と何事もなかったように言うのである! さっそくすがる気持ちで知らぬ仲ではない細谷さん(現アルゴ・ピクチャーズ)にメールして確認したところ、「都内の某所にある健康食品を扱う店の主人がフィルム・コレクターで、そこから借りた」とのことであった。「名前も連絡先も忘れちゃったし、かなり高齢だったからもう亡くなっているかもね」と細谷さんはメールで書いてきた。

またネットでの探索再開である。細谷さんの情報を頼りにネットから該当店をピックアップし、リストを作り、そこから可能性の高い順に電話してみることにした。最初に電話したのは、都内某所にある某健康食料品の販売店である。斯界ではかなり有名な店らしい。電話に出た女性は、「そのことはどうやらウチのことらしいが・・・」と言った。早くも大当たりである。ラッキーな滑り出しだ。期待に胸がふくらんだ。だが、女性は「先代の主人はもう8年前に亡くなっていますけど」とあっさりと答えた。「遺品とかあります? たとえばフィルムとか」となおも食いさがる私に「リストを書いたノートがあります。調べてみますので、題名を教えてください」とたぶん執拗に食い下がる私に渋々なのだろうと思うが、確かにそう約束されたので、監督名と題名を告げ、後日連絡をもらうことになった。ふくらんだ期待はしばしの間、宙吊り状態になった。待つのはあまり好きではないが、仕方がない。あとは放置プレイのつもりでしばしの間待つ間を楽しもうと辛抱強く心がけるだけである。

先方から3日後に連絡があった。思ったより早い返事である。そして・・・。

結果がどうであったかは、本欄では書かない。なかったとも言えないし、あったとも言えない、とだけ書いておこう。亡くなったコレクターの遺品を記したノートについても現在のところ想像に委ねたい。ただ2007年にシネマヴェーラ渋谷で行われた「妄執、異形の人々Ⅱ」で、青山定司監督『家獣』の上映されなかったことは、みなさんご存知のとおりである。

今回の件を通して、まあ自分としてはいつも似たようなことをボランティアとしてやっているわけだが、名画座の番組を組むのも大変だなあと思ったこと、フィルム・アーキヴィストの仕事もこんな調子で、こうやって期待と失望を繰り返しているだろうな、と改めて思ったことである。もちろん今さらながら映画蒐集・保存の必要性を痛感したのは言うまでもない。幸か不幸か、私は自主映画時代のほぼ全作品を観ている長崎俊一と大森一樹の8ミリ作品が決定的に破損して上映不可能になる現場にも立ち合わせているからである(前者は『造花の枯れる季節』で磁気サウンドトラックの剥がれ落ちによる破損、後者は『空飛ぶ円盤を見た男』シリーズの第3作『エネルギーマン』で、これはある事情のため監督自身により封印)。ともあれ、今からでも自主映画の公的機関による蒐集・保存・修復は急務の課題である。

この『家獣』探索に関しては、日比野さん、細谷さんに大変お世話になった。この場を借りて改めてお礼申し上げたい。細谷さんには同特集上映でやった中川信夫監督のテレビ作品『日本怪談劇場「牡丹燈籠 鬼火の巻・螢火の巻」』の件でもお世話になった。いろいろ調査した結果、民間の映画会社が上映用の16ミリプリントをすでに破棄していたことは残念であったが(フィルムセンターは所蔵している)、新しく作成したデジタル素材での上映が可能になった。内藤さん、あなたの無邪気な一言のために、私は自宅の中からほとんど外に出ずして、約7日間日本中のあっちこっちを走り回ることになったけれども、いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。

実は、私は『スパルタの海』の上映をめぐっても同じような手順を踏むことになったのだが(『スパルタの海』上映を提案したのは私だが、『家獣』に比べれば、調査・交渉は格段に楽だった)、あとを引き継いだ内藤さんが『スパルタの海』はすでに結審が出ている事件をモデルにした映画でもあり、上映に際し、法的判断に基づく「お断り書き」をつけることのほか、いろいろな取り決めを現在の権利元である「戸塚ヨットスクールを支援する会」と交わしたのち、こちらは無事上映にこぎつけた。どこもびびって封印映画扱いしている西河克己の隠れた佳作が24年ぶりに劇場初公開され、それがシネマヴェーラ渋谷で行なえたことは、幸運以外の何者でもない。また内藤さんが弁護士であればこそ、法律的なことについての配慮もできたというべきだろう。この件に関しても、上映を快く許可してくれた「戸塚ヨットスクールを支援する会」の方々ほか大勢の方に協力していただいた。改めてお礼申し上げます。

そしてシネマヴェーラ渋谷で行われた「妄執、異形の人々Ⅱ」特集の終了後、予想外の方面からまた新たなる展開があった・・・(続く)

追記:この記録は、『家獣』探索のため、自分の手持ちの資料をベースに、インターネットと電話を駆使しただけのものであるが、私は無論ネット利用者がしばしば陥りがちな万能感に浸るサルにはなりたくないので、本探索で分かった青山定司監督のご実家と某健康食品販売店には、近々ご挨拶かたがたお礼に出向くつもりである。