鈴木英夫〈その9〉 インタビュー:池部良2


前回は、池部良さんにインタビューし、『殺人容疑者』にクレジットされている《船橋比呂志》こと蜷川親博について、お話を伺った。少し時間があったので、池部さんが『不滅の熱球』(55)、『大番頭小番頭』(55)、『脱獄囚』(57)、『黒い画集・第二話/寒流』(61)の計4本の鈴木英夫作品に出演なさっていることもあり、池部さんが企画され、鈴木英夫監督とはじめて一緒に仕事をされることになった『不滅の熱球』についても伺った。

『不滅の熱球』は、上映プリントがあるにもかかわらず、ほとんど上映される機会もなく、地上波・衛星放送等でも未放送の作品であるが、この原稿を書き始めたら、ちょうど8月にNHK-BSでオンエアされるというニュースが飛び込んできた。この原稿が掲載される頃はすでにオンエアされているはずだが、私も久々に再見することができて嬉しい限りである。日本映画で野球映画といえば、丸山誠治監督の『男ありて』(55)が有名だが、本作は同じ年に製作され、同じ菊島隆三の脚本作品でありながら言及されることの少ない映画である。しかし、日本球界にその名をとどめる沢村栄治投手の半生記と聞けば、野球ファンは必見といえる。それだけにとどまらず、たとえば1950年代までのハリウッドの野球映画のほとんどがホームドラマであったり、夫婦愛を描いた作品であったように(『甦る熱球』、『打撃王』など)、『男ありて』同様にその系譜にある野球映画なので、本当のところは野球に興味のない方にも是非という感じで、見逃した方は再放送でもいいから、ひとりでも多くの方に観ていただきたいと思っている。

■『不滅の熱球』について


――池部さんは、鈴木英夫監督の作品に『不滅の熱球』とか『脱獄囚』とか『黒い画集・第二話/寒流』とか、いろいろ出演なさっていますけど、やはりいちばん印象深いのは最初に出演なさった『不滅の熱球』でしょうか。

池部 そうだね。これは僕が企画した映画。ホンは誰が書いていました?

――菊島隆三さんです。

池部 ああ、そうだ。原作は当時コミッショナーをやっていた鈴木惣太郎さんが毎日新聞に連載していたもの。それで鈴木惣太郎さんがこれを映画化しない?と提案してきた。

――面識はあったんですか?

池部  いや、僕は直接面識があったわけではないけども、僕の親父が当時毎日新聞と契約していて、それで僕が呼び出されたのか偶然会ったかして、とにかく読んでみましょうと。そうしたらこれがおもしろい。それでプロデューサーの佐藤一郎さんに提出した。ホンは菊島さんがいいと僕は思っていたのね。菊さんは僕が学生時代、シナリオ研究所というところに通っていたんだけど、僕がそこを卒業したあとに彼が入学してきたという関係で、いうならば彼は僕の後輩だね。そういうわけで僕は菊さんとは大変仲がよかった。彼は足が悪いでしょう。

――そうだったらしいですね。もうその頃からかなり悪かったんですか?

池部 そうね。だけどもみんな彼の足のことを気づかったりするでしょう。僕は口が悪いから、「もっと早く歩けよ」とか平気で言ったりするから、彼がそういう遠慮のないところを気に入ってくれて仲良くなった

――『不滅の熱球』を鈴木英夫さんが監督することになった経緯については?

池部 これはもう会社から指名されたんだろうね。キャスティングは僕も少しタッチしていて、相手役に司葉子君を推薦したのは僕。

――司さんは池部さんが芸名の名づけ親ですからね。

池部 そう。まだデビューしたての新人。

――千秋実さんは?

池部 それは合議で決まったのかな。彼は僕よりちょっとは野球を知っていたね。

――鈴木監督は野球ファンでしょう。アンチ巨人だったらしいですけど。

池部 それは知らないなあ。

――観戦するだけで、映画人の野球大会に参加してご自身も野球をしていたかどうかは知らないんですけども。ところで、池部さんはピッチング・フォームを沢村に似せるため、現役の巨人軍の全面バックアップで練習したとか。

池部 現役の巨人軍じゃなくて、沢村とバッテリーを組んでいた内堀ってキャッチャーが指導してくれた。内堀さんは当時ジュニア・ジャイアンツの監督をやっていた。沢村というのはピッチング・フォームが特徴的で、投げるときに足が頭のてっぺんまで上がっちゃう。打者のタイミングを狂わせるためであったり、球種を読みとられないようにするためでもあったんだけど、それを覚えるのが大変でね。最初は3ヶ月ぐらい練習するつもりだったけれど、時間がなくて1ヶ月ぐらいだったかなあ。多摩川の巨人軍の合宿所で練習したあと、千秋君を誘って――彼はイヤがっていたんだけど、千葉県の先にある那古海岸で2人きりで合宿した。朝2時間、昼からは2時間。というのは夏の暑い盛りで、それ以上はくたびれちゃう。

――池部さんは野球の名門である立教大学の出身なのに、野球を全然知らなくて、鈴木英夫監督によれば、クランク・イン前に池部さん、千秋さん、それに鈴木監督とで、一緒にプロ野球を観戦したとか。

池部 そういうことはあったかもしれないなあ。よく覚えていない。

――鈴木監督は、池部さんがあんまり野球を知らなくて驚いたと。でも、役者というのはすごいもので、クランク・インしてみると、池部さんの投げた球が狙ったところへズバッと決まるし、フォームも沢村そっくりで驚いたとおっしゃってました。

池部 (笑)。それは嬉しいね。多少自慢させてもらうと、映画だから投げるところと、キャッチャーが受け止めるところを切り返して撮ることもできるわけ。でもそれじゃ醍醐味がないじゃない。やっぱりちゃんとごまかしのない画面で見てもらいたいと。後楽園でかなりの数のエキストラを集めて撮影したのね。プロから見ればどうしょうもないションベンボールかもしれないけど、本番で3球投げてそれがみんなストレートで決まったのね。鈴木さんも喜んでくれた。

――たったの3週間でこれだけのことがやれるのは池部さんがすごいのか、役者っていう人種がすごいのかって、しきりに感心されてました。

池部 それは僕がすごいんでしょう(笑)。でもそれは嬉しいことですね。

――司葉子さんは入社2本目ですから、言っちゃ悪いんですがものすごく下手で。見ていてハラハラしました。

池部  (笑)。もうおかしかったね。新妻の役なんだけども、照れちゃってできないんだよね。

――鈴木さんがかなりシゴいたみたいですね。司さんは池部さんが名づけ親ですから、池部さんがアドバイスをするとかは?

池部 僕はあんまり他人に教えることが好きじゃないんで、そういうことはしなかったけれども、鈴木さんの言ってることが彼女に分からないときは僕が噛み砕いて伝えたことはある。

――ラブシーンができなくて、鈴木さんが「デコスケ!」と怒鳴りつけたそうですけど。

池部 そうだね。あれも苦労したんだよ。鈴木さんが司君の下手さに閉口してたのに、ラブシーンになると照れちゃってもうこれが全然できないんだ。そこで「葉子ちゃんね、俳優というのは君自身じゃなくて、今は沢村投手の奥さんなんだから、パッと役になりきらなきゃ女優になれないよ」と僕が言ったのね。そうしたら鈴木さんが「良ちゃん、よく言ってくれた」と誉めてくれた。



――ラストシーンはジャングルで倒れる場面でしたね。池部さんの戦争体験と重なる場面でもあるんですが。

池部 確か横移動で撮っていたんじゃないかな。

――そうです。ジャングルでフラフラになって歩いている池部さんをキャメラがゆったりとした横移動で全身を撮っていって、それから池部さんが倒れ込む、というような場面だったと記憶しています。

池部 沢村は2度応召されているんだけど(註:実際は3度)、この映画は野球映画ではなくて、ホームドラマであり、彼の半生を描いた作品でもあるから、ジャングルで倒れる場面で終わるんじゃなくて、最後のカットは後楽園を映して歓声を流して終わったほうがいいんじゃないかって提案したら、鈴木さんは喜んじゃってね。

――俳優イジメで有名な鈴木さんによほど気に入られたんですね。

池部 そうかな。僕には厳しいとかあんまりなかったなあ。まあ、人によってはそう思う人もいたかもしれない。『脱獄囚』(57)のときだったと思うけど、そのときは佐藤允君がやられていた。ほかの映画で佐原健二君もずいぶんやられたみたいだね。でも鈴木さんにやられる方もそれなりの原因はあるんだよ。僕は好きな監督のひとりでした。なぜかというと鈴木さんは演技のつけ方がものすごくうまかった。こっちがよく分かるように指導してくれた。自分でやって見せるっていうわけじゃないんだけどね。それとタテの構図で芝居をさせることが多かったから、できた画面を見ると奥行きがあって、重心が深いから画面が重層的で厚みがあるのね。黒澤(明)さんがそうだね。

――奥行きが深いということは、ライトの量を多くしなくてはいけませんね。役者の方は暑くて大変だと思いますが。

池部 そうそう。これは鈴木さんの映画じゃないけど、ライトの件では『戦争と平和』(47/山本薩夫・亀井文夫)でひどい目に遭った。居酒屋があってカウンターがあって、そこに5、6人が横に並んで飲んでいるわけ。そこをタテ構図で撮っていた。僕がいちばん向うにいたのね。それででっかいライトがずらりと並んでいる。10キロとか20キロとかのだね。「テスト!」と言ったらガチャンとライトが点いて、強烈な明かりが当たって、5分ぐらいテストをやっていると、髪の毛はジリジリしちゃうわ、ヤケドをしそうになるわ、頭はボーッとしてくるわで、ひどい目に遭った。「熱い!」と言うと、キャメラの宮島義勇が「熱くないんだ!」と言ってね。それで僕は宮島義勇が嫌いになっちゃった。パンフォーカスというんだけど、奥までピントを合わせようとすると、昔の映画はそれほど強いライトを当てなきゃならなかった。鈴木さんの時代にも、そりゃタテ構図でパンフォーカスで撮れば、熱いことは熱いんだけど、そんなひどいことはなかった。そういう思い出はあんまりないなあ。

――先ほどからお話を伺っていると、鈴木さんと池部さんは相性がよかったようですね。

池部 そうだね。とにかく僕には鈴木英夫さんというのは演技指導が緩急自在でものすごくうまかった監督という、いい印象しかないね。

2007年2月28日 外国人特派員記者クラブにて
インタビュアー・構成:木全公彦


■ 再録「『不滅の熱球』から」(池部良)


『不滅の熱球』を中心として、少しばかりの感想を書くとき、いずれにしても私事に及ばざるを得ないので、勘弁して頂くこととして。

元来、僕は、スポーツが好きである。しかし学生時代、ほとんど、その経験がなかったので、いわゆるスポーツ映画というものは、尻込していた。それでも映画界に入って十何年ともなれば、たまには自分で気に入った写真に出てみたい希望は、年々歳々カサを増してゆく。

兵隊時代、空しくさせられた乗馬、学生時代もっぱらしていたスケート。小学校時代から何となく毎年の夏、水につかっていた水泳、といったものが土台になって、僕にもやってみれば出来ないはずはない、運動神経の使い方を試したいと思ったのである。試しに映画に出るなんて、失敬千万な事だが、絶対自信を持って演るだけの強い自信があったわけではないので、試しに云ったのである。

僕は、映画俳優の魅力は、個性だと固く信じている。個性が世間に受け入れられている事が、人気俳優であると思う。それは、演技力が高度であろうがなかろうが、その地位はくずれない。

演技力が高い線に、勉強と経験から引き上げられたとしても、映画俳優の総てではない感がある。けれども、逆に、単純な個性だけで終始するのではなく事は、十何年も経ってみれば、分かるのであるが、とても個性だけで、世間の目をゴマかしたくはないし、あきたらなくなって来る。その頃は世間の思惑とは別に、高度なものを求めようと自分自身、あがいて来るのは当然である。

ちょうど、僕には、その年頃になって来たようである。だが、それでも、自分の個性を、他に切りかえて演技力の種類を違った質のものにしたくはないのである。この力が、五十歳、六十歳ともなれば、論をまたずであるだろうけれども、今の段階では、自分でも許し、世間でも認めている個性に、またよい条件と輝きを与えたいと努力したいのである。たとえば、僕はカーク・ダグラスの役目は出来ないが、ジェームズ・スチュワートの役柄なら、こなせそうな感じがするといった具合である。

そこで、もう一つ、たとえ、個性にピッタリとした役柄だとしても、ストーリーに、身もなく、肉もなく。ただただ、スレ違いの興味しかない役は御免蒙りたいと思っている。僕には僕の私生活に関する限りの性格もあると同時に、映画の中で、一個の人格を、鮮やかに画いて、別な映画の中での生活に苦労してみたい欲望がある。ここに俳優の面白さがあると最近になって分かりかけて来たのだが――。

そう言う意味で、新しい人格を構成しながら、自分の個性を多分に発達させようと思えば、それを画き出す、映画のストーリーは或る程度が来る。限界はあってもいいと思っている。それを深さにおいて、熟度を増せばいいのだから。

といった考え方で、しかも、商業映画の大衆と共に生きる、というのであろうか、世間一般が十二分に受け取ってくれて、自分だけが楽しんでいるマスターベーションのジェスチャーだけでない作品をと目玉をキョロつかせてさがしているのである。

その思いつきで至った、最初の作品が『不滅の熱球』という事になるのである。そこで更に今一つ、僕にはあまりピンと来ない事なのであるが、この写真に対して「野球映画」という名称をつけたがる向きもあるようだけども、感心出来ない。野球を踏台にしたのは事実だが、野球を完全に、写生したとは言えないのと、むしろ、野球を素材にして、若い或る人物(沢村選手)の半生記であり、愛の物語であり、仕事に総てを捧げた男の記録であるからである。日本の映画だけが何々ものと名称をつけたがるのはいささか悲しい気がする。そこで釈明するつもりで、もっとも深い真摯な作品を野球に材料をおかりしたという事が分かって頂ければありがたいと思っている。

この作品を作る動機の一つに、僕がやってみたいと言う事から、端を発したのはホントであるけれども、この話をプロデューサーの佐藤一郎氏と脚本家の菊島隆三氏に打ち明けたときから、映画製作へと出発したのである。

脚本の出来具合は菊島氏に任せてあるし、その経過は佐藤氏が、あらゆる手段で実践に当った。そして演出家の鈴木氏が具体的に努力されたのである。

総てをお任せしましたとなれば、僕は俳優である。余計な口をはさむ必要はない。僕の気持ちさえ、呑みこんで頂ければいいのであるから、後は、確実に沢村投手を演じ得る方法を、自分で選んで行けば良いと思った。

簡単に沢村投手を演ると言っても、プロ野球の名選手で、しかも、特徴のあるピッチングをする人である。出来る限り自分で、画面の上でも投げてみたいので、俳優としてのパートをやってのけられるよう、少しばかりではあるが、努力してみた。

大体3ヶ月を目標にして練習したいと考えていたけれども、――これは到底、望むべくもなかった。3ヶ月を芝居にしろ、映画のリハーサルにせよ、その間を映画会社にしてみれば、全くブランクにしておくのは、もってのほかであり、僕自身も、やってみたいと思う脚本の誘いなどを受けると、ついその気になったりして、3ヶ月の練習期間を設けるのに大骨折をしてしまった。結局のところ、3週間ちょっとという時間が与えられて、最初の1週間を、読売の中島さん、ジュニア・ジャイアンツ監督・内堀さんのコーチで、まず、ピッチング、それと沢村選手の、あの特徴ある投げ方を教わった。元々、野球に関しては、まるで能なしの事なので、お二人とも、アゴをさすって思案投首の態。

とにかく、少しでも、真似が出来ればいいというのを目標に、フォームから教わることにした。どうせ映画だから、ゴマかしは当たり前と考えた訳ではないが、何しろフォームが一番大切で、それから、球の行方が問題になると内堀さんも、中島さんも、そして僕もそう考えたのである。なかなか思うようにはいかんと思っていたけれども、こうも出来ないものかとなげいてしまった。

多摩川の巨人軍合宿所で練習したものの20代とは違うのである。苦しいのが先に立って、何とも歯がゆい。

2週間目からは、捕手内堀選手になる千秋君と誘い合って房総の先、那古海岸で、身体を作ろうという建前で、二人だけの合宿をした。暑いので、ヤケにくたびれる。

それでも、朝、2時間、昼下がりから2時間の日課を通して、多少、腕の痛さ、腰の痛さを消したので、これは、幸先宣しと、二人でニッコリした。

3週間に入って再び、内堀氏、中島氏、それとジュニア・ジャイアンツの諸君から、手に手をとって教わった。

3週目の終わりから、クランク・インである。それからは、練習が出来ないので、野球シーンとなると、少し早く出て練習したけれどもヒジだの肩だのを痛めて、ピッチャーの苦労を、ヒトシオ感じた。

映画製作に始めからタッチした俳優の経験としては貴重だったと思います。『不滅の熱球』が大方の賛同を得ようと得まいと、今後他の機会にこれらの経験を生かして行ったらと、僕に力強い方向を与えてくれました。

初出「月刊シナリオ」1955年2月号
*池部良さんの了解を得て、全文を転載しました

付記:前回の記事(鈴木英夫⑧)で、蜷川親博が助監督で参加した『急行列車大競争』なる映画は存在しないと書きましたが、掲示板で『地獄の貴婦人』(49/小田基義)のことではないかと指摘がありました。調べてみたところ、それに間違いないようでしたので、原稿の一部を訂正しました。『地獄の貴婦人』についてはいろいろ興味深い製作背景のある映画なので、改めて調査し、いずれ書きたいと思います。