鈴木英夫〈その8〉 インタビュー:池部良1




先ごろ、インタビュー本「映画俳優 池部良」(志村三代子、弓桁あや編、ワイズ出版、2007年刊)が出版されたばかりの池部良さんにインタビューを行った。

池部さんは、『不滅の熱球』(55)、『大番頭小番頭』(55)、『脱獄囚』(57)、『黒い画集・第二話/寒流』(61)の計4本の鈴木英夫作品に出演なさっている。鈴木英夫監督については、「映画俳優 池部良」でも触れられているので、今回のインタビューの目的は、主に『殺人容疑者』(52)の脚本と共同監督にクレジットされている《船橋比呂志》なる人物について、お聞きすることである。《船橋比呂志》とは誰か。以前、この欄でインタビューを掲載した、脚本家の長谷川公之さんに聞くと(鈴木英夫〈その7〉)、「池部良さんのマネージャーみたいなことをやっていた蜷川親博(にながわ・しんぱく)という人のペンネーム」という回答を得たので、池部さんにその情報の裏づけを取り、さらにその人物について詳しくお聞きしたいと思ったのである。長年、たくさんの映画を観、たくさんの映画雑誌や映画本を読んでいるが、《蜷川親博》という人物ははじめて耳にする名前である。一体どういう人物なのか。

■  池部良が語る蜷川親博


――今日、池部さんにお話を伺いたいと思ったのは、《蜷川親博》という人についてです。数年前、脚本家の長谷川公之さんがご健在の頃にお話を伺ったんですが、長谷川さんが脚本を監修なさった映画『殺人容疑者』のクレジットに、鈴木英夫監督と並んでクレジットされている《船橋比呂志》というのは誰なのかという私の質問に、「それは本名《蜷川親博》といって、以前は東宝で池部さんのマネージャーみたいなことをやっていて、東宝争議で新東宝に移籍した人である」とお聞きしました。そこで別の機会に松林宗恵監督に取材をしたとき、《蜷川親博》についてお聞きすると、「確かに東宝争議以前、東宝の助監督にそういう人はいたけれども、新東宝に移っていないのではないか」と言われました。

池部 なるほどね。確かに蜷川親博は東宝で助監督をやっていた。いつ入社したのか。戦前から東宝にいたことは確かだね。僕はその頃から彼を知っていたわけじゃないんだけれども、『戦争と平和』(47/山本薩夫・亀井文夫)に出演したとき、助監督だったのが彼で、そこで知り合った。年齢的にはチーフであってもおかしくないのに、確かセカンドかサードだったんじゃないかと思う。彼のお父さんは絵描きなのね。それで僕の親父も絵描きだから、「同じような境遇で一緒だね」ということで声をかけられたのかな。だから僕のマネージャーだったわけではない。

――年齢は池部さんと蜷川さんとどちらが年上なんですか?

池部 同じぐらいの歳だったんじゃないかなあ。でも、なんていったらいいのかなあ・・・友人といっても、まあ友人には違いないんだけれども、常に僕のほうが優位に立っているような関係だったので、そういうのを友人といえるかどうか。よく僕の下宿先に泊まりにきたり、彼が「家を建てるんだけど、カネがないから貸してくれ」と頼まれて、いくらだったか忘れちゃったけど、当時のおカネで5万円だか10万円だか貸した覚えがある。僕だってまだ復員してきたばかりだし、東宝からまだそんなにおカネをもらってないから、今のおカネにすればたいした金額じゃないんだけども。そのとき僕が貸したおカネは返してくれなかった。船橋の海岸沿いに家を建てるとか言っていたけど、僕はその家に行ったこともないし、招かれたこともない。はたして本当に家を建てたんだかどうだか。

――ああ、それで《船橋比呂志》というペンネームなんですね。

池部  僕は彼が変名を使ってそういう映画を監督したことは、今日まで知らなかった。大体、親博さんの才能とか能力は誰も認めていないんだから。ただみんなが便利に使っていただけでね。《親博》って《ちかひろ》と読むのが本当なんだけど、誰もそんなふうに呼ぶ人はいない。みんな「しんぱく、しんぱく」って。彼もバカにされないように、もっと身ぎれいにして、ちゃんとした格好をしてりゃいいのに、進駐軍の払い下げのサイズの合わないような服を着て、いつ洗濯したんだか分からないような感じでヨレヨレでね。髪は蓬髪というのかボサボサというのか、ただヒゲは剃っていたなあ。まあ、とにかく身なりが汚いの。

――松林監督も親博さんの身なりの汚さはおっしゃってました。

池部 たまには風呂に入ってサルマタぐらい自分で洗えと、僕が言うと「汚い?」と聞くから「ああ、汚いよ」と答えたりしてね。あとから彼は一回り以上も離れた人と結婚するんだけど、よくぞ嫁を見つけたなあと。でも、これが彼の嫁さんにしちゃ案外きれいなんだね。その頃は親博さんもあまり仕事がなくて、奥さんが下北沢に小さな居酒屋を出していたと思う。

――蜷川さんが東宝を辞めるきっかけというのは?

池部 『戦争と平和』を撮影しているとき、親博さんはどの程度か知らないけれど、ちょっと左翼のほうに傾倒していたのね。まあ、その頃の東宝は第1回の争議が終わったあとで、共産党のアジトみたいになっていて、だれもかれも左翼っぽくはあったんですけど。組合員でもない共産党の連中が撮影所にごろごろいた。彼らが撮影所の人間に働きかけて、「組合に入れ」とかいろいろと工作していた。僕は俳優だって労働者だから賃金とか労働条件の改善とかについては関心を持っていたから、「組合に入ってくれ」と言われたので、そういうことをやってくれるんならと僕も承諾した。

――そのときに池部さんを誘ったのが蜷川さんですか?

池部  そうじゃない。「組合に入れ」と勧誘してきたのは日映演の組合員。それで僕は組合に入ったんだけど、だんだん共産党の縛りが強くなってきて、こちらが望んでいる労働環境の改善に全然取り組んでくれない。そんなときに新博さんが「一緒に共産党に入って運動しようよ」と言ってきた。運動するたって、僕は共産党が嫌いなんだ。共産主義に対しては多少の僕なりの思いがないわけではないけれども、共産党そのものについては嫌いだから、入党なんかしたくない。親博さんは僕の言うことに腹を立てたんで、彼とケンカをしたこともある。

――蜷川さんは共産党員だったんですか?

池部 組合員だったことは確かだけど、左傾はしていたけれどもどこまで真剣だったのか。山本薩夫さんについて行って、監督になるんだって。僕はそれならそれでいいと思ったけれど、彼が腹を据えてやっているように見えなかった。それならもっとしっかりやれと。それで監督になれるかどうかは僕の知ったことじゃない。第一、話が別でしょう。それは才能の問題だから。それからしばらく経って新東宝から誘いがあったんで、僕は「監督になりたいならば、それも道だから新東宝に行けば?」と言った。

――しかし新東宝は東宝の共産党主導の組合運動に嫌気が差した人たちが作った会社ですよね。左傾化していた蜷川さんが新東宝というのは変ですね。

池部 だからそういう中途半端だったんだよ、彼は。

――「十人の旗の会」のときに付いていったわけでもない?

池部 誘いがあったのはそのずっとあと。「十人の旗の会」は、組合運動したって映画は作れないでしょ、という意見の人たちでしょう。みんな共産党に支配されている組合がイヤだったんだね。僕もそのときは誘われたんだけど、僕は復員してまだ日が浅いから右も左もよく分からないし、さっきも言ったように共産主義には関心があるけれど、共産党は嫌いだという、自分の中に分裂したものを持っていた。だから新東宝へ行くのも、東宝に残って組合運動をやるのも、どっちもいいし、どっちもイヤだと思っていた部分がある。両方の陣営からすれば、僕みたいな存在はヌエかコウモリみたいな存在だったんじゃないかな。自分ではニュートラルでいたつもりだったんだけれども、ずいぶん苛められました。親博さんの場合は、ニュートラルでもない。単に曖昧だっただけなんだ。新東宝に行って監督になるのか、組合活動に没頭して共産党のPR映画みたいなものを撮る監督になるのか、それも決めかねていた。僕はそういう彼を見ているとイライラして「旗幟鮮明にしろ」と。

――でも、山本薩夫さんについていくとおっしゃっていたんですから、筋としては山本さんと一緒に新星映画とか独立プロに行くのが本当ですよね

池部 そこなんだ。そういう親博さんの曖昧で腹の据わらないところを山本薩夫さんは見抜いていて、彼を信用していなかったんじゃないのかな。

――それは思想的に、ですか?

池部 そう。ただ親博さんを重宝に使っていただけ。親博さんもそれを承知していたと思うんだけど、傍から見ているとよく分からない。

――結局、蜷川さんは新東宝にも行かなかったみたいで、さりとて左翼系の独立プロにも行ったわけでもなく、広告代理店系列の独立プロと契約なさっていたようですね。

池部 僕も親博さんがなにをやりたいのかよく分からなかった。三菱自動車ってあるでしょ。親博さんは車が好きで、運転することが大好きだったのね。それで彼が助監督として重宝されていた部分もあるんだけど、あるとき「自動車会社とタイアップでアフリカを車で横断し、それを本にまとめたい」と言い出してね。僕は「いいじゃない。君がやりたいなら君が話しをつけて勝手にやれば」と言ったら、三菱自動車と話をつけるのに成功し、アフリカを車で走破し、そのことを本に書いて出版した。本を僕のところにも送ってきた。でもね、左傾化していて共産党に一緒に入党しようと言っていた男がだね、企業とタイアップしたり、PRに一役買ったりしているわけだから、やっていることはばらばらだよね。資本主義の宣伝をしているわけだから。そういうところが山本薩夫さんやキャメラマンの宮島義勇さんからすれば、「なんだ、あの野郎は」となるわけでしょ。宮島さんに浮ついた態度をいさめられたことがあったんじゃないかな。それで親博さんはしょぼんとしちゃって「やっちゃいけなかったことなのかな」と言っているから、「やっちゃいけないんじゃなくて、君の態度がはっきりしないからダメなんじゃないか」と僕は言ったわけ。「でも監督になれるかなれないか分からないからなあ」なんていつまでもグズグズ言っているの。甘ったれなんですよ。まあ、僕も口が悪いからずいぶんはっきりしたことを言って、「君とはもう別れるから、さようならだ」と言ったことも何度もある。それでしばらく疎遠になっている時期があった。

――『殺人容疑者』は電通DFプロという独立プロダクションの作品で、配給したのは新東宝。プロデューサーは電通DFの大条敬三という方なんですが、なにかご存知ですか?

池部  いや、知らない。そもそも僕は親博さんがどういう形であれ、映画を1本でも監督したことがあったことなんて知らなかったんだから。

――それ以降の蜷川さんとのお付き合いは?

池部 そのアフリカ自動車紀行のあとだったと思うけど、またなにか自動車会社とタイアップして、テストドライバーみたいなことをやったり、あっちこっちに車で旅行して体験記事を原稿にして本を出したりはしていたみたいだね。まあ、割合ちゃんとした本で、一応読める代物ではあった。ただ彼の紀行文でしかないわけだから、本としての価値はそれ以上でもそれ以下でもない。文学作品とかでもないわけだし。娘が二人いてね。生活は奥さんが下北沢の飲み屋をやって支えていたと思うんだけど、彼は非常に娘をかわいがっていた。ある程度年をとってからの子供だからね。上の子が小学校を出るか出ないかのときだったと思うんだけど、親博さんが例によって自動車会社とタイアップしたのか、娘を連れてアメリカ大陸を車で横断旅行したいと言い出してね。「自分でそうしたいんだったら、自由にしたらいいじゃないの」と僕は言ったの。ホントはむちゃなんだよ。大体、娘の小学校はどうするんだって僕は怒ったのね。彼はこれも社会教育だって言うんだけど、半年ぐらいかけて親子二人で野宿をしながら車で旅をするって、むちゃな話だよ。結局、彼はそれをやって、また本にして発表した。

――それはいつ頃の話ですか? 新東宝がまだある頃ですか?

池部 いつ頃の話だったか。

――海外渡航が自由化されていない時代ですかね。1ドル360円の。

池部 最初の出した本の頃はそんな頃だったんじゃないかな。(昭和)35年とか36年とかの頃だね。

――まだご健在ですかね?

池部 いや、亡くなった。最後は喉頭癌で声帯を取っちゃってね。僕は口が悪いから彼にいたわりの言葉をかけたりはしなかったんだけど、気にはかけていたんだ。まあ、才能はないし、いいかげんな奴だったけど。

――おかげさまでヒントが見つかりました。もう少し調べてみます。

2007年2月28日 外国人特派員記者クラブにて
インタビュアー・構成:木全公彦


■  蜷川親博の素顔


後日、国会図書館で調べてみたところ、《蜷川親博》名義の本が6冊、《蜷川ひろし》名義の本が1冊見つかった。すべて車関連の本で、車メーカーのノンフィクション・ルポないし自分が車で世界中を旅した紀行本で、以下である。

1「クルマ気ちがい 世界を駆ける」(実業之日本社、1963年)
2「ドライブ冒険野郎」(サンデー新書、1967年、《蜷川ひろし》名義)
3「小説トヨタ車」(大陸書房、1977年)
4「世界カー戦争」(大陸書房、1978年)
5「走れ!ランクル 北米・カナダ20000キロ親子旅」(日刊スポーツ出版社、1980年)
6「奔馬よアフリカを往け」(現代創造社、1983年)
7「封印されたトヨタ車」(三推社、1997年)

1は、国会図書館の検索リストには記載はあるが、申請したら「紛失した」との返事。よもや「きちがい」の言葉を自主規制して処分したのではないのかというあらぬ疑念が湧いたが、それは考えすぎだろう。仕方なく、ネットで古本屋から買い求めた。内容はコロナ車で世界中を旅した記録である。今でいえば「進め!電波少年」のクルマ版ともいえる内容で、アメリカ大陸からはじまってヨーロッパを横断し、中近東からインド、シンガポール、香港から日本に戻るという世界一周ルート。本の発行年度が1963年で、コロナRT20Lによる世界一周の旅を実行したのが1959年だから、かなり早い時期での世界一周の貴重な体験ルポとしてそこそこ評判になったのではないのか。

以下は奥付の著者紹介文。 「蜷川親博(にながわ・ちかひろ):プロデューサー/いつの日か世界一周ドライブ旅行を成功させよう、と少年の日に夢見たことを、遂にチャンスをとらえて実現した男。物おじない生来のノンキさが、かえって難関を突破できた原因、と本人はきわめてひかえ目であるが、人一倍粘り強い闘志をうちに秘めた典型的な外柔内剛型である。静岡出身。東宝映画退社後、現在独立プロにて演出・脚本制作に活躍中」。そのほかの本の紹介文も総合すると、1918年静岡生まれ、48歳のときの結婚し、2女あり、ということになる。

池部さんのお話に登場する本と思われるのは、5と6である。半日がかりでこれら7冊の本をすべて斜め読みしてみたが、紀行文か小説風のルポのようなものばかりであった。本人はハードボイルドを気取っているのか、「俺」という主語を多用したぶっきらぼうな文体の、安っぽい通俗読み物の域を出ない読み捨ての代物であった(まあ、こっちも他人のことは言えないが)。本の扉や奥付に書かれた経歴や肩書きによると、上記のプロデューサー・演出・脚本家のほか、初期のテレビ放映作品のいつかにも脚本を提供しているらしく、またクルマ関係のライターとして、新聞・雑誌でも活躍、となっている。ただし、可能な限りテレビ作品についても調べたが、詳細は分からなかった。

5は、12歳になる娘を連れての北米クルマ旅行の記録。トヨタのランドクルーザーで野宿をしながら北米を横断したルポである。この旅行記は、帰国後、NHK「600 こちら情報部」ほか各局のテレビ局で取り上げられ、テレビに親子出演をしたようである。

6は、彼の書いた本の中でもっとも小説風の色合いが濃いルポ。1981年のサファリ・ラリーに取材し、翌年のケニアのラリーでは出場を果たしたときの様子をまとめたもので、日本テレビでも放送されたようである。

「走れ!赤いランクル」のくだりにこうある。「オレは結婚もしないで世界をフラフラ歩いてきた。たまに書いたり発表したりするものはペンネームだ。“何とか賞”なんて貰ったり、“ケッ作だ・・・”なんて誉められたりすると名前を変える。国鉄総武線の駅名にかけて“千葉”から始まり“津田沼”だの“船橋”だの“市川”だのと東京に向かってのりかえ変名だ。アメリカのとんでもないところから“賞”を贈られてあわてたりもして津田クンだってロクなものじゃなかった。受賞者の中にはそれっきりで人生終わったのが多かったが、オレはいつも新人でいられたおかげで生きのびた。その代わり常に“貧しく名もなく・・・”だ」

これが本当なら、蜷川親博のペンネームは《船橋比呂志》だけではなく、多数のペンネームを持っていたことになる。「賞をもらった津田」とは何か? 分からない。これでは彼の全貌はつかみきれない。肝心の映画について書かれた部分はどうか。自身の映画でのキャリアについて書いた部分があったのは、「奔馬よアフリカを往け」と「小説トヨタ車」だけであった。

「戦後、日本映画の独立プロ製作のはしりを駆け、カメラを街の中に投げこんでドキュメンタリー形式犯罪ドラマの先陣を切った。当時の常識外であった低製作費でモノにして以後に流行させた。さらに、スター万能の時代にその頃の無名の演劇青年を主役にして、その青年が現在では、日本で随一の国際大スターに成長、最近もマルコポーロで貫禄を見せた」(「奔馬よアフリカを往け」) とある。それだけである。これは明らかに『殺人容疑者』のことで、文中にある「無名の演劇青年」とは丹波哲郎のことなのに、なぜそういった固有名詞を一切省いて、思わせぶりな記述をしているのか。

「小説トヨタ車」を読むと、蜷川親博がトヨタと最初に関係をもったのは、東宝で助監督をしていた頃にさかのぼるのだという。トヨタとのタイアップを取りつけた蜷川は、田中友幸プロデューサーに提案し、トヨペットを使ったカーアクションのある映画を企画する。監督は小田基義。主演木暮実千代、竜崎一郎。蜷川は中北千枝子が車を運転する場面のスタントを指導したという。かなりそのあたりの事情は詳しく書いている。映画の題名は『急行列車大競争』――。

この映画は公開題名『地獄の貴婦人』(49)のことらしい。未見なのでなんともいえないが、カースタントを必要とする中北千枝子の場面とはいかなるものなのか。それにしても、本の中では終始仮題だけで表記して、公開題名を明らかにしていないことにはなにか理由があるのだろうか。 池部さんのいう、左傾化しながら企業のPRをやるようないい加減さを、山本薩夫や宮島義勇にいさめられたというのはこの映画のことなのか。それともこの映画のタイアップに象徴されるだけで、蜷川がその前から共産党系の連中には信頼されていなかったことは十分に考えられる。たぶんこの年、蜷川親博は東宝を辞めているはずである。彼が東宝を退社する原因になったのは何か。

生前、鈴木英夫監督は『殺人容疑者』について、私が訊ねるときまって言葉を濁し、「船橋比呂志という人物は誰か」という質問に、「そんな人は知らないし、誰かと共同監督した覚えもないし、脚本家とも会ったことがない」と答えていた。一応、当時のプレスシートでは『殺人容疑者』が鈴木英夫と船橋比呂志の共同監督作になっているのは、鈴木が東宝と契約し、急遽『続三等重役』(52)の撮影に入ったので、あと2日間の撮影を残して『殺人容疑者』の現場を離れ、脚本を書いた船橋比呂志が引き継いで演出したため、ということが書いてある。しかしそうなると、鈴木英夫がこの現場を離れざるを得なかった原因がはたしてそれが本当なのか怪しくなってきた。なにか不愉快なことかトラブルでもあったのではないのだろうか。

以下は「日刊スポーツ」1953年8月8日付けのベタ記事である。

「電通DFプロでは近く『殺人列車』(脚本舟橋比呂志)を製作する。同映画は現代社会を背景に、ボスに対抗して生きる青年の悲劇を描く九巻もののセミドキュメンタリー映画である。このほか同プロでは八月中旬から『ビニールと人間生活』(監督舟橋比呂志)を製作、十一月教配を通じて映画教室用として配給する」(《舟橋》の表記はママ)

どうやら『殺人容疑者』の成功を受けて、電通DFプロは同じような傾向の新作映画を、船橋比呂志こと蜷川親博を中心に据えたスタッフ編成で製作しようとしていたようである。しかし『殺人列車』は製作されなかったし、『ビニールと人間生活』についても製作されなかった可能性が高い。前回の長谷川公之さんの証言によると、電通DFプロのプロデューサー大条敬三は蜷川親博と友情で結ばれていたというから、『殺人容疑者』のすぐあとに大条が急死したことが遠因になって、これらの作品は製作中止になったのではないのか。大条の急死によって、蜷川親博をかばい、盛り立ててやる人間がいなくなったということは大いにありうることである。

『殺人容疑者』が公開された翌年、1953年の2月1日にはNHKが、8月28日には、日本テレビ放送網(NTV)がテレビの本放送を開始する。弱小プロダクションであった電通DFプロ(電通映画社)がCMの製作に乗り出すのはまさにその1953年である。映画はまだ娯楽の王者の地位にあり、1958年には映画館の入場者数はピークに達し、この世の春を謳歌するが、テレビが映画の座を奪うまでは、あと10年もかからない。そして電通映画社は、テレビの放映開始により、CMやPR映画を中心とする広告出稿で売り上げを伸ばし、広告プロダクションとしては世界最大規模と売り上げを誇る、世界でも類のない巨大な広告制作会社となっていく(1996年に電通テックと改称)。奇しくも鈴木英夫が電通をモデルにした激しい広告合戦を描いた映画『その場所に女ありて』を監督するのが1962年のことである。

映画で落ちこぼれた蜷川親博は、テレビや広告業界でも上昇気運に乗れず、自動車ライターとしての活路を見出そうとし、それさえも文化の使い捨て時代にあって、消耗戦を強いられて結局名を成すこともなく亡くなったのではないだろうか。つまりはそういうことである。よくある話というわけだ。

いずれにせよ、いくつかの疑問点の解明は今後の課題。とりあえず《船橋比呂志》を追っかける旅はこれでいったん打ち切りである。

次回は、今回に引き続き池部良さんのインタビュー第2回を掲載する予定でいる。お楽しみに。

【付記】前回の長谷川公之さんのインタビューで、『殺人容疑者』のプロデューサーの名前を「大枝」と表記したが、改めてテープを確認したところ、確かに長谷川さんは「大枝君」とおっしゃっており、「大条敬三」を「オオエダ」と読むのか、「大条敬三」が「オオエダ」なる人の変名なのかは不明である。つじつまからいえば、同一人物のはずなのであるが。