鈴木英夫〈その6〉 対談:鈴木英夫×木村威夫
今回は、鈴木英夫監督と美術監督の木村威夫さんの対談を掲載する。鈴木監督がまだお元気な頃に収録したもので、未発表のものである。当時は鈴木さんの大映時代の作品が観られる日が来るなんて思いもよらなかったため、資料の少ないそれらの作品について、あまり多くを語ろうとしない鈴木さんに、それらの作品を未見のこちらしても質問をする取っ掛かりがなくて、尋ねあぐねていたのである。そこで、大映時代にコンビを組んだ木村さんにご連絡を差し上げて、渋谷の喫茶店で対談をしていただくことにした。

木村威夫さんはいうまでもなく、日本映画を代表する美術監督である。鈴木英夫監督とは、『蜘蛛の街』(50)で初コンビを組み、『恋の阿蘭陀坂』(51)、『西城家の饗宴』(51)と計3本の作品で組まれている。現在、『映画美術 擬景・借景・嘘百景』(木村威夫・荒川那彦編著、ワイズ出版、2004年)という大著が出版されているが、それに先立って出版されていた『わが本籍は映画館』(木村威夫著、春秋社、1986年)に鈴木監督との仕事について触れた部分があった。次の部分である。

”「昭和二十五年に『蜘蛛の街』という作品で名声をあげた鈴木英夫監督も私の好きな作家であった。彼との仕事では私は私なりに好きなようにやった。その内容はリアリズムなのであるが、その世界を少々広げてドラマのサスペンスを誇張して付着させたところがミソなのである。酒場などは自分の好みの世界を作り、おかげで評判が良かった。鈴木さんとは三本撮り、このあとの『恋の阿蘭陀坂』は京マチ子の主演で、菅原謙二がまだ初々しい青年役でデビューした作品でもあった。私は舞台となる長崎の資料を先輩の映画美術家水谷浩さんから拝借して、それ以来親しくなったが、その頃の水谷さんは大映の女優さんと同棲していて、その社宅に住んでおり、胸が悪く青い顔をしてよく大映村を散歩していた」(『わが本籍は映画館』)”

これを読んで、なんとしてでも鈴木監督と対談していただき、まだ当方が観ぬことのかなわぬ作品群について、少しでも知りたいと思い、木村さんにお電話を差し上げたのである。木村さんは快諾して、鈴木監督との何十年ぶりかの再会が実現した。対談には木村さんと親しい映画史家の田中眞澄さんにも同席してもらい、私の拙い司会をフォローしていただいた。お二人の記憶を喚起していただくため、資料を持ち込んでお二人にはあらかじめ目を通してもらい、テーブルに広げながらお話をしていただいた。会話は終始、木村さんが闊達にお話になり、寡黙でシャイな鈴木監督が頷くという感じであった。鈴木監督の亡くなれた現在となっては、もっと突っ込んで聞いておけばよかったとか、まだまだ聞くことはあったのに、と悔やまれてならないが、これはこれでかなり貴重な対談ではないかと思う。

今回の掲載にあたり、本欄のインタビュー原稿のすべてをそうしているように、木村さんに掲載許可をいただくと共に、不明点について書き込みと原稿の訂正・添削をしていただいた。また、『蜘蛛の街』『恋の阿蘭陀坂』がBSやCSで放映されるという予想もしなかった展開を利用して、この2作品をダビングし、改めて木村さんに観ていただくことにした。ただし、今回の掲載原稿は対談当時のライブ感を出したかったので、若干の訂正のほかは当時のまま生かして掲載することにした。機会があれば、木村さんに半世紀を経て再見された2作品についての感想と鈴木監督の思い出を改めて語ってもらうつもりでいる。




鈴木 大映での僕の映画は、みんな最低の予算で時間もないから、木村君にはずいぶん迷惑をかけたね。

木村 大映は予算がなかったですからね。

――1本の作品はどのぐらいの予算で、撮影日数は何日ぐらいなんですか?

鈴木 『蜘蛛の街』(50)は1千万ぐらいかな。だいたい準備に10日間、撮影に23日から25日ぐらい。それでやれっていうんだからね。時間も予算もないから撮りきれない。撮ったぶんで工夫してまとめろということはしょちゅうだったね。

――木村さんは鈴木さんとは『蜘蛛の街』から組まれるんですけど、鈴木さんのデビュー作『二人で見る星』(47)はご覧になっていたんですか?

木村 もちろん見ました。撮影所のスタッフ全員で期待して、鈴木さんを応援していたんです。だから、社内の試写のときは、撮影に参画していない撮影所のスタッフも試写室につめかけて満員でした。僕も『二人で見る星』には参画していないんだけど、これは見なくてはと期待に胸弾ませて観ました。上映が終わったあとは万雷の拍手でしたね。まだ当時は戦後まもない頃でまだ貧しい時代でしょう。着ているものも粗末だし、腹も減ってみんな飢えているし。その中でよくぞこうした純真で誠実な映画ができたもんだなと。当時の大映では、大衆に媚びたような当たるような企画しか通さなかったから、よくこんな地味で誠実な企画が通ったなと思いました。初々しい印象で感動した覚えがあります。

鈴木 あれは自分で撮るつもりでシナリオを提出したら、ダメだと言われて代わりに出した企画なんだ。

――『二人で見る星』で美術を担当された今井高一さんという方は?

木村  もうお亡くなりになりました。この方の息子さん(今井高司)も美術監督になったんですが、もう映画は辞めちゃったんじゃないかな。企画にクレジットされている須田鐘太さんというのは、大映東京撮影所の所長をされていた方ですね。あまりサラリーマンぽくなくて、美術に理解があった方です。

――木村さんは鈴木さんを助監督時代から注目されていたんですか?

木村 こう言っちゃいけないんだけど、当時の大映にはあまり冴えた人がいなかったんですよ。大映の東京撮影所では、「母もの」とか陳腐なメロドラマとかそんなのばかりでしたから。鈴木さんだけが低予算でもリアリズムで野心的な映画を作っていらした。鈴木さんが東宝に移られてからですよ、増村さんとかどんどん若い優れた監督が出ていらしたのは。僕は鈴木さんがもう少し大映にいてくれれば、またご一緒できたのにと大変残念に思いました。

――その頃の鈴木さんの助監督というと?

鈴木  古川卓巳君や枝川弘君。それから野村企峰君。

木村 ああ、野村企峰さんって方いらっしゃいましたね。

――野村企峰さんって名前も存じ上げなかったんですけども、予備知識なしに観た野村さんの監督作『真昼の惨劇』(58)は社会派リアリズムのなかなかの佳作でした。

鈴木 彼はもうだいぶ前に亡くなっているね。

木村 野村さんはなかなか馬力のある人でした。

鈴木 古川君は日活に行ったし、野村君は東映か。

――鈴木さんが大映にいらした頃は、まだ日活も東映もないですからね。

木村 なにしろまだ新宿に焼け跡がある頃ですからね。新宿武蔵野館の隣に「リンデン」という喫茶店があって、そこで10円だったかでコーヒーをよく飲みました。

鈴木 撮影所の近くにも喫茶店があったね。あの橋を渡って右側に。

木村 ええ、ありました。照明課長の小塚(時雄)さんの奥さんがやっていた店です。

鈴木 ああ、そうだそうだ。

木村 小塚さんというのは、照明課長で、永田(雅一)社長の次の次ぐらいの大株主なんですね。だから、睨まれるとえらいことになっちゃう。僕は睨まれちゃったんです。ライティングするためにはいろいろ制約がありますね。光をこうやったらいいとか。僕は若気の至りでそういうのを一切無視して、どんどんセットを組んでいったら、確実にセットが天井の照明にかかっちゃうことがあって、小塚さんに怒られました。『蜘蛛の街』は、キャメラマンの渡辺公夫さんがよかったですよね。呑ンベエでしたけど。僕は渡辺さんとウマが合いました。

鈴木 その頃の木村君は紅顔の美青年だったんだよ。これは本当。

木村 『蜘蛛の街』では、僕はいまだに印象に残っているのは、主演の中北千枝子が小さな団地に住んでいるんだけど、カーテンに顔をつけて外を見る場面で、中北さんの顔とカーテンの揺れる動きとカーテンの金具の音が見事に一体になってサスペンスを出しているところ。そこが今でもものすごく印象に残っています。セットの団地から見た目の画面で、そこに電柱が建っているんですが、その影から黒ずくめの変な男がアパートを見張っている場面があった。その男は僕が演じました。

鈴木 そうだったね。

木村 それは新聞か何かを読みながら、黙って無言でアパートを見張るように立っているだけの役。僕は全然そういうつもりがなかったんだけど、「出なさいよ」と鈴木さんに言われて、「ええっ!」と思ったんだけど、「セリフはないから」と言われて安心して出たんです。ワンカットだけですけどもね。

鈴木 とにかく予算がないからね。木村君に頼めばギャラを払わなくて済むから。

木村 セットは、当時の戸山ハイツをモデルにして、3階建てだったのかセットを作りました。入り口は下の階と上の階とくっつくぐらい目一杯作ったんです。当時のアパートだから狭くって、4畳半と6畳ぐらいしかないんですよね。とにかく予算がなくてね。普通ならセメントを流し込んでコンクリートで作っちゃうんだけど、大映はそんなのは飛んでもないっていうんで、泥以外にオガクズを流し込んでそれをドロドロに溶かして、それを塗りました。オガクズはどこにも山のようにあるじゃないですか。モノクロ映画だからそれらしく見えるけど、カラー映画じゃダメですよね。東宝さんじゃそういうバカなことをしないでしょう。貧乏会社だから知恵を使わないと。だいたい3階建てのアパートのセットを組むこと自体、大道具さんもなんでそんなこと必要なのかみたいなことをいうわけ。そんなのを4棟ぐらい建てたんですよ。バカでかいんだ。

――アパートを4棟も建てたんですか?

木村 そうです。大変でした。

鈴木 美術部は製作部といつも揉めていたね。

木村 映画のためにみんなが協力するってんじゃないんです。みんなで映画を作ってるのに製作部は映画作りを邪魔するんだ。もうちょっと予算があればできるようなことにこっちが知恵を使ってやっているのに、いちいちチェックしていろいろ言うわけです。まあ、あんまり悪口を言うのも何ですから。

――もう時効でしょう(笑)。

木村 でも、プロデューサーの三浦信夫さんが僕らの擁護をしてくれた。そうそう、思い出したけど、キャメラの渡辺さんがローアングルで覗くんだよね。でもセットはバーのカウンターの底まで作りこんでないからバレが出るわけだね。それで慌てて板を張ってやっと作りこんだ記憶がある。女優さんでは目黒幸子って出てましたよね。この方はこのあと成瀬巳喜男さんの『あにいもうと』(53)で出ていらっしゃいましたよね。とても綺麗な人でした。大映はこのあたりから若い女優さんが出てきたんじゃないですか。

鈴木 目黒幸子は助監督の井上芳夫と結婚したんだね。

木村 ええ。井上さんと同期の弓削太郎さんは自殺しましたね。かわいそうでした。

――木村さんは鈴木さんとは『恋の阿蘭陀坂』(51)もご一緒されていますよね。

木村 サーカスが舞台の映画なんだけど、脚本のイメージがあまりに古臭いんだ。要するに日本髪で黒襟の女が馬車に乗って旅回りをするというわけ。それを鈴木さんがイヤだと言い出してね。たとえばアメリカ映画で描かれるサーカスみたいにステーション・ワゴンみたいなものにしてほしいって言われた。それで脚本を書き直し。その間に僕たちはロケハンに行って。確か鈴木さんはロケハンに行ってないですよね?

鈴木 そうだったかもしれないね。

木村 助監督の枝川弘さんとキャメラの渡辺公夫さんと照明の柴田恒吉さんと僕とで、長崎にロケハンに行きました。その間、鈴木さんはホン直し。でもどうホンが変わるか分からないから、長崎の古風なところを片っぱしらから探すじゃないですか。最初のホンのイメージだと曲馬団か何かに黒襟の女がいるってような時代錯誤な設定だったから、こちらも分からないんですよね。それで鈴木さんが直したら、全然違うんだ。エミール・ヤニングスの『ヴァリエテ』(25)のイメージですよ。「それっ!」ていうんでまたロケ地を探しに行きました。

鈴木 そうだったね。

木村  当時、終戦直後で「ヴァニティ・フェア」とか洋書がたくさん手に入ったんです。渋谷の恋文横丁の近くに本屋があって、そこにダーッと積んであるの。そういうのを仕入れて勉強したりしてね。僕はすべて揃えていました。それで僕はそれを参考にしてちょっと変てこりんなセットを作ったんです。冒頭とラストで京マチ子さんが十字架の並んだ墓地で倒れ込む場面がそう。それから、あのときの石畳はハリボテじゃなしに、一生懸命に作った記憶があります。サーカスの場面もセットですから、綱渡りする場面でネットから張ってね。

――鈴木さんはロケでの芝居をセットに持ち込むことが多いのですか?

鈴木 そうでもないです。場合によるね。

――『西城家の饗宴』(51)も木村さんの担当ですね。

木村  あれは主演の菅井一郎の芝居がよかったですね。戦後没落した海軍の大佐か何かの役で、頭が少しおかしいの。それはそういう真似をして周りを騙すという設定でしたね。

鈴木 そう。娘をかばって頭がおかしいフリをするんだ。

木村 あとは瀧花久子さんが出ていたな。田坂具隆さんの奥さんですね。それから若山セツ子、荒川さつき。三條美紀さんなんかまだスターになる前ですね。

鈴木 彼女は演技課長をやっていた佐藤(圓治)さんの娘だね。

木村 大映は日活からの伝統で瓦も全部作り物なんです。本瓦は重いから使わない。で、今みたいに発砲スチロールなんかない時代だからブリキで瓦を作るんです。そういうのを作るブリキ細工の名人がいて、ぱっと作っちゃう。軽いからセットを組むときでも、本瓦だと大変な工事になるんだけど、簡単に出来る。でも、なんとなくドシンとした感じが出ないんだね。確かに瓦は並んでいるんだけど、重みがないんだ。イヤだったけど、そう言えませんしね。お金がない貧乏会社ですから。そういう美術というのは全部日活の流れです。だから満洲映画協会の美術も全部日活の流れを汲んでいますね。長春撮影所なんか全部昔の日活と同じ。だからその流れで東映がまた同じなんですよね。だから映画美術の根っこは全部日活なんです。それをどこまで克明にやるかの違いだけだけど、それが大きいんだね。東宝なんか絶対本瓦ですから。

――鈴木さんは美術に対して特別な注文とかあるんですか?

木村 鈴木さんは正攻法でありながら、どこかに新しいものを盛り込むというやり方。基本的にはリアリティを重んじる方です。鈴木さんが大映をお辞めになってからは、ポカッと穴が開いたみたいになっちゃって、本当に残念でした。

――鈴木さんが大映を辞められてから監督なさった『花萩先生と三太』(52)は民芸製作なんですが、大映配給だからと思うんですが、大映のスタッフですよね。美術のクレジットがないようですが。

鈴木 オールロケの作品だから美術スタッフは使わなかったんだ。

木村 民芸は美術というセクションを認めてないんだね。

鈴木 電通映画社で撮った『殺人容疑者』(52)もオールロケだから、美術スタッフがいないんだ。僕はいつも最低ランクの製作費でしか映画を撮らせてもらえなかったから、東宝に入るまではオールロケで撮るしかなかったんだ。

――イタリアン・ネオリアリズムの映画はお好きだったんですか? 『無防備都市』(45)とか『自転車泥棒』(49)とか。

鈴木  好きでしたよ。感動しました。

――鈴木さんは大映ではあまりたくさんの映画をお撮りになっていませんね。

鈴木 そうだね。上に睨まれていたんだ。その点、木村君は日活に移ってから、年間5本ぐらいはやっているね。年がら年中仕事をしていたわけだ。

木村 日活ができて給料を聞いたらあんまり多いので驚いちゃって。

鈴木 木村君のやった作品は日活を代表する名作ばかりだね。

木村 日活では僕が目指していたリアリスティクな美術というのができないんです。それならば違う面の美術に挑戦しようと思ってやったんですね。そういうのは若い監督が乗ってくれましたね。それでいろんなことをやりました。

鈴木 僕は、なんのシャシンだったか忘れたけど、あるとき本社に呼び出されたんで、また怒られるかなと思ったら、川口松太郎さんに誉めてもらって、「帰りにメシでも食っていけ」と、当時のお金で5000円もらったことがある。あ、そうだ。ひとことチェックがあった。「もっと女を勉強しなさい」と言われたんだ。

――その成果が『その場所に女ありて』(62)になるんですね。

鈴木 川口さんの言う女というのは、花柳界とかの人だと思いますよ。勉強するにしても、こっちはそんな金ないですから。

――木村さんは鈴木さんとは3本の作品でご一緒されたんですが、いかがでしたか?

木村 当時の大映では鈴木さんというのは、やはり異質だと思いますよ。先ほども言いましたが、大映の東京撮影所では母ものが主流だったわけでしょう。その中で鈴木さんはリアル志向で、ジメジメした感傷がないんだから、すごいことです。

――木村さんはたとえば鈴木さんが東宝で撮った作品で、『その場所に女ありて』なんかの美術を担当されている竹中和雄さんはご存知ですか?

木村 竹中さんの仕事はいつも感心して拝見してます。いいなあって。

鈴木 彼は成瀬さんの美術をやっていた中古智さんの助手だったんだ。

木村 中古さんの美術の遠景は全部3分の1の縮尺なんだね。瓦も全部本瓦を3分の1で作らせた特注品。羨ましい話だね。そんなこと僕はしたことないですから。

鈴木 でも、僕は木村君にずいぶん助けられた。

木村< こちらこそ鈴木さんにはいろいろ勉強させていただきました。

(1996年4月23日 渋谷にて)
インタビュアー:田中眞澄、木全公彦
構成:木全公彦




その後、木村さんは『映画美術 擬景・借景・嘘百景』という大著を出版されたことは前述したとおりである。鈴木英夫監督について、なにかしらの情報が書いてあるかと思ったが、ごく簡単に鈴木さんについて木村さんが書かれたエッセイがあったのみであった。次の部分である。

「鈴木英夫監督は新興キネマの出身であり、田中重雄監督のチーフをずっと務めてきた方である。監督昇進第一作『二人で見る星』は評判が良く、すぐに第二作を撮るようになった。その作品『蜘蛛の街』という奇態な題名であるが、下山事件を下敷きにした信じられぬような物語であった。宇野重吉の渋い演技が全編を支えていた。その頃、戸山ハイツのコンクリート建てのアパートは一般市民のあこがれの住居群であった。それをモデルとして設定にした。その部屋に至るまでの高さを表現するのに、ロケをせずセットに組み込んだために、すべての工法が大変であった。勿論、部屋の位置も別にせずそのままの寸法で、高々と組み上げた記憶がある。鈴木さんとは此の後『恋の阿蘭陀坂』『西城家の饗宴』と続くが鈴木さんはこの『西城家の饗宴』を最後として東宝に移籍してしまい(注1)、せっかく良き仲間と信じていたのに、胸の中に大きな空隙がぽっかりと空いたような気分であった。その鈴木さんも平成十四年二月に他界された(注2)。心よりご冥福を祈る次第である」(『映画美術 擬景・借景・嘘百景』)

注1:実際は、大映を退社後、民芸、東映などで映画を撮ったあとに、東宝に移籍。
注2:平成十四年五月の間違い。

木村さんには再度インタビューを敢行する予定でいる。お楽しみに。