鈴木英夫〈その5〉 再録『蜘蛛の街』を見て(江戸川乱歩・島田一男対談)など
1950年6月5日付「毎日新聞夕刊」
まず朗報から。10月のチャンネルNECOに大映時代の鈴木英夫作品『恋の阿蘭陀坂』(51)、衛星劇場に『目白三平物語・うちの女房』(57)が登場する。前者は長らく上映プリントがなかった超レア作品。しかしながら、鈴木監督の決して得意ではないジャンルの作品で、本人も「失敗作です」という一語であまり多くを語っていなかったが、評価は観てからでも遅くない。別に傑作じゃなくてもよい。つまらなくなければ、めっけもんである。なんてたって(おそらく)半世紀ぶりの登場なんだから。

大映時代の鈴木作品といえば、先ごろ、WOWOWで放映された『蜘蛛の街』も、鈴木英夫の初期の傑作として、一部のファンの間で語り継がれていた作品にもかかわらず、おそらく1950年に初公開されて以来、フィルムの不燃化の切り替えによってネガが存在せず、長らく観ることのできない幻の映画であった。ずいぶん前に大映に問い合わせたことがあるが、それによると16ミリ原版はあるとの回答を得たので、決して失われたわけではないから、いつか観ることができるだろうと期待はしていた。 しかし誰が鈴木英夫の作品など観たがるのだろうか。ましてや主演は宇野重吉と中北千枝子という、これまた地味な配役では、新しく上映プリントを作るためには16ミリ原版から35ミリの中間ネガを作成して、そこから35ミリの上映プリントを作るのだから、その経費を考えるとほとんど無理ではないかと、絶望視していたのである。それが半世紀を経てふいにテレビで放映されるとは、まさしく奇跡。生きていてよかった。しかしまあ、そのような気持ちは、これだけビデオやDVDが氾濫している時代にあって、ろくすっぽ名作と呼ばれる映画でさえも観ずに映画監督になりたいとぬかす大半の連中にはわからないだろう。観たいといってツタヤに行けばホイと借りられる映画を観て感動するのと、観たい観たいと念じて何十年。ああなのかな、こうなんだろうな、と想像し、次第にイメージが膨らみすぎて、妄想にまで発展し、観られる可能性を絶望視していたときに、ようやくそのチャンスがめぐってくるありがたさでは、同じであるはずがない。もちろん膨らみすぎたイメージと実際の映画との乖離に釈然としないことを感じることは『蜘蛛の街』に限らずままあれど。まあ、ともあれ、WOWOWには深く感謝したい。

ところで、すでに書いたように、『蜘蛛の街』は、当時キネマ旬報が休刊している時期にあたり、まともなデータや批評がほとんど残されていない。現在、インターネットでキネマ旬報に記載されている戦後の洋画・邦画のデータ記事を検索できる「キネマ旬報データベース」でも、『蜘蛛の街』の項はおざなりのスタッフ・キャスト表記が書かれてあるのみで、あらすじは空欄である。それ以外に検索を続けてみると、さすがにWOWOWでの放映を観た人たちの感想が引っかかるが、現代の視点から書かれた単なる感想の域を出ず、データはもちろんのこと、『蜘蛛の街』が公開当時どのように受け止められ、またその時代にあってどのような意義があった映画だったのかという言及したものは寡聞にしてないようだ。贔屓の引き倒しをするつもりもないし、いくつかの欠点も指摘することは可能だが、とりあえず評価や批評は措き、少し想像力を働かせて、当時の大映、ひいては日本映画界において、スリラー/サスペンス映画を作るとはどういうことであったか考えてみたい。

1950年6月5日付「毎日新聞夕刊」では、次のような書き出しで始まっている。

”《『窓』『私は殺される』のように外国映画では恐怖心理をついた優秀スリラーがぞくぞく出来ているのに、これまで日本映画といえば単なる探偵活劇が多かった。そうした中にあって、今度の大映・三浦プロの『蜘蛛の街』は作品的にはとかくの論議もあろうが、ともかく真面目な意図に置かれた日本で初めての本格的スリラーといえよう。》”

この新聞記事は、このあと『蜘蛛の街』を観た江戸川乱歩と作家の島田一男の対談へと続くのだが、それはのちほど転載する。

ちなみに1950年代初めまでの日本映画における現代劇のスリラー/サスペンス映画の見取り図を書いておく。 当時、この手の作品を比較的たくさん製作していたのは大映東京撮影所である。その代表格といえる作品は、久松静児監督の諸作『夜光る顔』(46、菊田一夫原作)、『パレットナイフの殺人』(46、江戸川乱歩原作)、『蝶々殺人事件』(47、横溝正史原作)、『三面鏡の恐怖』(48、木々高太郎原作)、『氷柱の美女』(50、江戸川乱歩原作)や、牛原虚彦『虹男』(49、角田喜久雄原作)、加戸敏『絢爛たる殺人』(51)という作品(脚本はすべて高岩肇)のほか、松田定次監督、比佐芳武脚本、片岡千恵蔵主演の『七つの顔』(46)、『十三の眼』(47)、『三十三の足跡』(48)などの多羅尾伴内シリーズであった。多羅尾伴内シリーズはそのまま松田、比佐、千恵蔵トリオが移籍した先の東映に受け継がれ、同時に同じトリオで『獄門島』(49)、『八ツ墓村』(51)、『獄門島』(49)、『悪魔が来たりて笛を吹く』(54)といった横溝正史原作の映画が東映(東横)で作られる(千恵蔵が金田一耕助を演じた)。 これらが当時の現代劇のスリラー/サスペンス映画であったのである。間違わないでほしいが、「これらが主流であった」のではなく、「これがすべて」だったのだ。江戸川乱歩や横溝正史原作の伝奇推理モノといえば聞こえはいいが、多羅尾伴内シリーズもひっくるめて、要するに小人や海坊主の怪人が登場する幼稚なおどろおどろしさに彩られた荒唐無稽の活劇であって、現代の尺度からすれば、おおよそスリラー/サスペンス映画とは呼べないシロモノばかり。ただ1本、黒澤明の『野良犬』(49)だけが例外であった。そうした中に『蜘蛛の街』が登場したのだ。

大映でこれらの作品の脚本のほとんどを手がけたのは高岩肇だが、それがたとえ伝奇ロマン風の荒唐無稽な活劇ミステリであったとはいえ、日本映画の現代劇にミステリというジャンルをはじめて持ち込んだのは高岩であったといっても過言ではない。そして『夜光る顔』に続いて、江戸川乱歩の「心理試験」を映画化した『パレットナイフの殺人』がヒットし、上記のような作品が続々と製作された。ところが高岩は、1948年12月28日に日本で公開されたジュールズ・ダッシンの『裸の町』(48)を観て、日本でもこうしたリアリズムに基づいたスリラー/サスペンス映画が作れないかと考える。戦前から「新青年」を愛読しているミステリ・ファンである高岩であれば、『裸の町』に新しいスリラー/サスペンス映画の可能性を感じとったらしいことは想像がつく。そして高岩は1949年に起きた下山事件をヒントにしたオリジナル脚本『蜘蛛の街』の脚本を執筆する。高岩は新興キネマ東京撮影所の六車修所長の秘書から脚本家に転身したから、大映東京撮影所の中でも脚本部の部長クラスの地位にあり、自らが書いた『蜘蛛の街』の監督を指名できる立場にあったらしい。そこで指名されたのが『二人で見る星』(47)でデビューした新人・鈴木英夫であった。鈴木英夫にとって監督第2作である。

休刊中であったキネマ旬報にかかわらず、当時の映画雑誌にはほとんど『蜘蛛の街』に関するデータがないので、当時の新聞等から製作状況を抜粋する。

”《さきに永田大映社長が表明した永久産業としての「映画」の道を開こうという方途にもとづいて名より質を選ぶ方針。つまりポスターバリューより内容の充実をはかる意味で『蜘蛛の街』が大映多摩川撮影所でクランクを開始したというわけ。いままでのように大スターの名前さえ並べれば観客は付いてくるという安易な考えでは成り立ってゆけぬところまで現今の映画界は来ているのである。いずれにしても各種状況不利の今年度映画界に望む道は一重に作品の「質」にかかっていることを各映画製作者たちは銘記すべきである。大映がこの点に気付き(遅まきながら)しかも実行に移すことになったのはまことに喜ばしいことであり、その意味からこの『蜘蛛の街』は注目に値する。・・・主演の宇野重吉は善良な失業サラリーマンを演ずるが、これは気弱な男が無意識のなかに巧妙なギャングのわなに落ちて、その手先に使われていることを知り、次第に社会罪にたいする激しい反感と社会正義に目ざめて行く過程を心理的な表現で演じ、けだし宇野重吉にはうってつけの役柄であろう。彼自身も「年来宿望の役で是非やってみたいと思っていたんです。このなかでサンドイッチマンにもなるので目下勉強中なんですよ」》(1950年5月2日付「アサヒ芸能新聞」)”

”《日本映画の連綿であるスター・システムを打破しようと大映の三浦信夫プロデューサーが演出に新人鈴木英夫監督を起用、キャストも宇野重吉、三島雅夫、中北千枝子、伊沢一郎、千石規子らに根上淳、目黒幸子の新人を混え、スターバリューからいえば弱い俳優のみを集めて製作している『蜘蛛の街』はいま映画界で注目の的になっている。三浦プロデューサーはこの企画について「徒らにキャストの名前に頼って失敗した前例から、作品そのものの良さこそ本当のものということを実証したい。幸いにしてこの意図が成果をあげれば、今後の製作方針に大きい示唆と励ましを与えるだろう。安い製作費で良い効果を出す。この意味でもこの作品は実験的試みと信じている」と語り、同時にこの作品は従来の日本映画のスリラーがややもすれば次々と起る事件のみとらわれ心理描写不足の欠点をさけ、あくまで殺人者の恐怖心理の推移に基礎を置くことを主張するという。このため撮影にはセミ・ドキュメンタリーの効果を出す目的から十九日終日にわたって銀座に進出した。わざわざ銀座のド真中に白昼五十メートルの移動台を敷き、移動車を使ってのロケーションも珍しいことなので、主演者の舞台度胸も人一倍ある宇野重吉がさすがにサンドイッチマンで一日中歩かされて上り気味であった。一方またシナリオ・ライターの高岩肇氏までが交通整理に動員された。人だかりを逆に利用して本物のサンドイッチマンまで遊歩し始めたりして、その好対照に大衆を喜ばせる余興もあった。》(1950年5月21日付「読売新聞夕刊」)”

話題の中心は安い製作費とノースターのことばかりに集中しているのが興味深いが、それ以上に当時ではまだ珍しかった街頭ロケに言及している点にも注目したい。当時は、製作費のうち1千万円は出演者のギャラに消えるといわれ、東宝のストライキの影響でスタッフの残業代も高騰していた時代に、『蜘蛛の街』の製作費は出演者のギャラも含めて780万円の低予算で製作されたのである。

”《製作当初から天候にわざわいされ続けて、話題の宇野重吉がサンドイッチマンに扮するシーン(銀座街頭ロケ)をまだワンカットも物にしていない大映のスリラー映画『蜘蛛の街』はもっぱらセット撮影ばかりが進行しているが、このなかから一つ、二つ話題をひろってみよう。/なんといっても話題の主は宇野重吉。彼がサンドイッチマンになるというので各新聞社のカメラマンは手ぐすねひいて京橋の大映本社宣伝部にやいのやいのと連日押しかける。・・・例によって戦後派の浮遊ギャングになる伊沢一郎。スタッフ・キャストのだれかれをつかまえては「俺は今日虫の居所がよくないんだ・・・」としきりにアジっていたと思ったら、とうとうアジリ疲れて面白くない理由を白状に及んだ。「実は、最近どの映画にでても割合楽に芝居ができたんだが、今度は鈴木さん(監督)が演出プランが実にこまかいところまで計算されていて、いいかげんな芝居をするとビシッと釘をさされる。若い人だが全く・・・」という次第。/その鈴木英夫監督を向うに回して、スリラー映画に新生面を拓かんものと熱演しているのが宇野、千石、三島の新劇組、酒場フラックバードのセットで得意の心理的演技を存分に駆使している。テストの合間にキャメラを向けると、紫しぼりのマダム(千石)が「新劇人映画を語る、といった図ね」とめっぽう巧い、しかしとりようによっては皮肉めいたタイトルをつけてくれた。・・・》(1950年5月23日付「アサヒ芸能新聞」)”

この連載で掲載した複数の関係者による証言にもあった「演出の粘り」と「役者のしごき」は監督第2作目である『蜘蛛の街』から顕著であったことが分かる記事である。ところで、『蜘蛛の街』以前の日本映画界のスリラー/サスペンス映画のありかたに不満を感じていたのは、それまでのそうした作品に原作を提供した江戸川乱歩とて同じだったらしい。『蜘蛛の街』を試写で観た江戸川乱歩は、さっそく新聞紙上でのちにNHK『事件記者』に原作を提供することになる推理作家・島田一男と対談する。先に掲げた新聞の続きである。

島田 われわれの身近な人が描かれて、一般の映画をみたあとでよく感じる馬鹿馬鹿しさというものを全然感じなかった。登場人物に必然性があり、不自然な人物が出てこないところ率直な描き方のせいだと思った。

江戸川  いままでの日本のスリラー映画は原作のある場合、概して原作よりは悪かった。これは高岩肇君のオリジナルで一応成功している。

島田 小説と違って映画の場合はゆっくり考える余裕がないということを感じる。主人公宇野重吉のうまさ、音楽効果のよさ、特に小道具の伏線がよく利いていた。サンドイッチマンを出したことも思いつきといてはいいね。

江戸川 宇野が脱出を決意する時や、首領から“処置せよ”の指令が届く前後のキッカケが弱い。いつの場合でもそうだが、悪党が脅しつける部分が多い。宇野、中北の家庭がよく描かれている割に悪党側の演技は劣った。夫婦の情愛などいかにも小市民生活の雰囲気をよく出していた。

島田 妹がやって来て、サンドイッチマンをしていることを何気なくバラす。それを細君がなぜそんなことをなどといわないで割り切っている感じもいい。あそこで細君が泣いたり嘆いたりすると幻滅になる。

江戸川 あの女房もいいね。子供はいつの場合でも素直でいいんだが、三島雅夫の首領は善良さの方が強くって実感が出なかったが、ピストルを撃ち合って死ぬ前後の芝居で見直した。『蜘蛛の街』という題名はまたまた例のスリラーかと思われるが、少なくとも戦後のこうした心理的スリラーとしては随一のものじゃないかと思う。解りにくい長いものを短くまとめようとして無理をするよりも、映画では短いものを掘り下げるというこの種の行き方が成功すると思う。

『蜘蛛の街』の登場は、もうひとり、『裸の町』に刺激を受け、日本にも多羅尾伴内ではない、リアリズムに基づいた本格的なスリラー/サスペンス映画(というより刑事ドラマ)の創造を夢想していた脚本家に強い自信を与えるきっかけになった。のちに東映東京撮影所で製作される、警視庁を舞台にしたリアルな刑事の集団ドラマ『警視庁物語』シリーズ全23作(55~64)すべての脚本を執筆する長谷川公之である。長谷川は大学の医学部を卒業したあと、警視庁刑事部法医学室に勤務し、鑑識課員をするかたわら、脚本を執筆していた異色のキャリアを持つ。自分が実際に事件に接する実情と日本映画界のスリラー/サスペンス映画の現状との落差に深い失望感を抱いていた長谷川は、それまで青春映画や風俗映画の脚本しか書いてこなかったが、『蜘蛛の街』を観て励まされ、下村兼史のドキュメンタリー映画の製作などで知られる新理研映画の製作で、警視庁全面協力の『青い指紋』(52、青戸隆幸)の脚本を書く。『青い指紋』は、長谷川にとって初めて自分のキャリアを反映したリアルなセミ・ドキュメンタリー・タッチの犯罪捜査映画の脚本であり、『警視庁物語』のプロトタイプとなる作品である。

試写で『青い指紋』を観た電通映画社のプロデューサー大条敬三は、さっそく同傾向のセミ・ドキュメンタリー・タッチのリアルなスリラー/サスペンス映画『殺人容疑者』(52)を企画する。脚本の構成を長谷川に依頼し(脚本は船橋比呂志)、『蜘蛛の街』でその手の映画に先鞭をつけた鈴木英夫(当時大映を退社してフリー)に監督を依頼する(共同監督は船橋比呂志)。配給は新東宝。この作品もキネマ旬報をはじめとする映画雑誌に基礎的なデータがまるでなく、出演者欄には「セミ・ドキュメンタリー映画(出演者は劇壇員)」としか書かれておらず(キネマ旬報DB)、「船橋比呂志」なる人物のことすら、よく分からない作品だが、実は丹波哲郎の映画初出演、それも堂々の主演という作品で、全編街頭ロケで撮影したセミ・ドキュメンタリー・タッチのスリラー/サスペンス映画の草分けの1本である。

こうした映画の流れは、東映東京撮影所の『警視庁物語』シリーズの大成功を経て、その後テレビに飛び火し、KR『日真名氏飛び出す』(56)、NTV『ダイヤル110番』(57)、NHK『事件記者』(58~66)、TBS『七人の刑事』(61)、NET『警察物語』(63)、NET『特別機動捜査隊』(65)という初期のテレビドラマで隆盛を誇った刑事/新聞記者モノのドラマの潮流を形成していく。しかし鈴木英夫は、1954年に東宝と契約すると、プロデューサーから与えられた作品をローテーションでこなさなければならない職人監督に徹し、巨匠でもないわけだから苦手なジャンルも手がけなければならず、しばらくスリラー/サスペンス映画とは縁遠くなる。それが「プロデューサーから企画を提示されたときに『蜘蛛の街』に似た感触を持った」と監督自身が語る『彼奴を逃すな』(56)で、再び犯罪に巻き込まれた小市民の恐怖を描き、スリラー/サスペンス映画に回帰する。と同時に、東宝という会社による要請もあるだろうが、それ以前のセミ・ドキュメンタリー・タッチのスリラー/サスペンス映画(大映『蜘蛛の街』、電通映画社『殺人容疑者』、東映『死の追跡』)に決別し、この作品以降、東宝独特の硬質な手触りのするスリラー/サスペンス映画というジャンルの中で、《組織と個人》、《野心と競争》という主題を盛り込んだ、フィルム・ノワールの味わいのある優れたスリラー/サスペンス映画を作り上げることになる。

こうした日本映画史における戦後スリラー・サスペンス映画の流れを見ていくと、江戸川乱歩が「少なくとも戦後のこうした心理的スリラーとしては随一のものじゃないかと思う」と語るように、いかに『蜘蛛の街』がもたらした影響が大きかったのか理解できるのではないかと思う。