10月のCS・BSピックアップ
橋本忍といえば、日本映画を代表する脚本家。黒澤明の脚本執筆における世界にも類のないユニークな共作スタイルは、全盛期の黒澤映画のおもしろさを支える原動力になったことは衆目の認めるところである。

日本映画専門チャンネル衛星劇場では、「脚本家・橋本忍の仕事」と題して、主要な作品が15本放映される。日本映画専門チャンネルでは、『羅生門』(50)、『生きる』(52)、『七人の侍』(54)といった黒澤作品3本のほかに、『日本のいちばん長い日』(67、岡本喜八)、『上意討ち・拝領妻始末』(67、小林正樹)、『白い巨塔』(66、山本薩夫)という、文字どおり日本映画では珍しい男性的で骨太の作風を体現した代表作がずらりと並ぶ。それに監督作『南の風と波』(61)、怪作『幻の湖』(82)が加わる。衛星劇場では、『砂の器』(74、野村芳太郎)、『首』(68、森谷司郎)、『真昼の暗黒』(56、今井正)、『切腹』(62、小林正樹)、『張込み』(57、野村芳太郎)、『八甲田山』(77、森谷司郎)、そして監督作『私は貝になりたい』(59)。こうして並べてみると、60年代までは、ほとんどの映画に回想場面を織り込んだ構成の脚本は、シナリオ学校の教材に利用されるほど、隙がないほど見事なものばかりだが、橋本プロダクションを興したあたりから、突如壊れ、暴走していくさまがよく分かる。監督デビュー作である『私は貝になりたい』は平凡な出来だったが、その次の『南の風と波』は決して悪い映画ではないのに、『幻の湖』、『愛の陽炎』(86、三村晴彦)、『旅路・村でいちばんの首吊りの木』(86、神山征二郎)と、奇怪としかいいようのない作品ばかり連作するようになるのはどういうわけか。もともとシナリオ集やエッセイを読むと、もともとSFや伝奇ものに強い関心があったようだから、そうした土壌はあったとはいえ、この壊れっぷりは不可思議としかいいようがない。

その橋本忍に師事し、脚本の腕を磨いたのが野村芳太郎である。最初にコンビを組んだ『伴淳・森繁の糞尿譚』(57、野村芳太郎)は風刺が不発ぎみだったが、松本清張という鉱脈を発見し、器用なだけのなんでも屋だった野村は、一躍松本清張映画の第一人者に躍り出る。衛星劇場では、その野村芳太郎の清張作品を「松本清張サスペンス映画大特集 Part1」で7本放映する。作品は、野村が初めて評価された『張込み』をはじめとして、『ゼロの焦点』(61)、『影の車』(70)、『砂の器』(74)、『鬼畜』(78)、『わるいやつら』(80)、『疑惑』(82)、『逃走迷路』(83)と、「脚本家・橋本忍の仕事」とダブっている作品もあるが、野村の清張作品を網羅。この中で『逃走迷路』は未ソフト化でほとんど観る機会のないレア作品。噂によると、清張は野村と一緒に「霧プロ」を設立して、自作の映画・テレビ化に熱心に取り込み、野村の腕にも信頼を寄せていたが、『逃走迷路』があまりに出来が悪いために激怒して封印したと伝えられている。もちろん真偽は定かでないが、その後、「霧プロ」は解散、野村にとって『逃走迷路』が最後の清張作品になったことを考えると、あながち的外れでもあるまい。

ほかに衛星劇場のレギュラー枠から、「ニッポン無声映画探検隊 第7回」では、『ちょっと出ました三角野郎』(30、佐々木恒次郎)と『与太者と小町娘』(35、野村浩将)が放映される。前者は村対抗の八木節大会を舞台にした喜劇。サイレントで歌合戦をどのように演出しているか、そのあたりを観ていただきたい。後者はいつもながらの「与太者」シリーズの一篇。戦後は東宝でバーのマダム役ばかりを演じるようになった坪内美子の美しさと、後年の東宝映画とは一味違う大日方傳の精悍な魅力を楽しみたい。

「メモリー・オブ・若尾文子 Part16」には、『口笛を吹く渡り鳥』(58、田坂勝彦)、『砂糖菓子が壊れるとき』(67、今井正)、『悶え』(64、井上梅次)が登場。『悶え』では結婚初夜に旦那が不能であることを知り、処女妻の文子タンが夫の部下に惹かれていくというお話。原作は平林たい子。『砂糖菓子が壊れるとき』は、マリリン・モンローの半生をモデルにした曽野文子の同名小説の映画化。「モデルにした」といえば聞こえはよいが、売れない女優がヌード・カレンダーのピンナップ・モデルとして売り出し、野球選手やインテリ作家との結婚の破局を経て、睡眠薬の多量摂取で若くして死ぬ女優のスキャンダラスな半生は、何の創意工夫もなく、誰でもが知っているモンローの半生をまんまトレースしただけで唖然とする。こんなんで「原作」といっていいものだろうかと呆れた記憶がある。それにしても夫が不能の処女妻といい、愛に飢えたセックス・シンボルの女優といい、この時代に大衆が文子タンに求めていたイメージがよく分かる作品である。

「銀幕の美女シリーズ」は野添ひとみを特集。松竹でデビューし、大映で増村保造の映画に出演し、増村映画の最初の顔となる彼女だが、今回は松竹時代の作品ばかりを放映する。『いとしい恋人たち』(57、番匠義彰)、『おもかげの歌』(53、穂積利昌)、『地獄の花束』(54、芦原正)、『婦警日誌より・婦人科医の告白』(57、岩間鶴夫)の4本。みごとなまでにどうでもいいような作品ばかり。しかし、こういう映画はこういう映画の楽しみ方があって、たとえば『婦警日誌より・婦人科医の告白』は、かつて名画座で上映されたとき、「浴槽の花嫁」までパクったそのあまりにバカバカしい展開に場内大ウケしたカルト作で、大蔵新東宝で映画化すればピッタリな往年のカストリ雑誌の匂いが松竹で映画化されたものだから、そのミスマッチが実におかしいという作品。まあ、時間がある人だけどうぞ、とあまり推薦はしないけれど。

「リクエスト・アワー」と「日本映画名作劇場」からランダムに選ぶと、なにをおいても『目白三平物語・うちの女房』(57、鈴木英夫)を推薦しなくてはならない。もともとこの企画は、東宝争議の責任を取って東宝を辞任し、自らのプロダクションを作っていた藤本眞澄が中村武志の原作に目をつけて企画し、東映で千葉泰樹監督の手によって映画化された作品。『サラリーマン目白三平』(55)と『続サラリーマン目白三平』(55)の2本が作られ、藤本の東宝復帰によって鈴木英夫監督で再スタートを切った。『目白三平物語・うちの女房』のその最初の作品で、こののちダイヤモンド・シリーズの枠で『サラリーマン目白三平・女房の顔の巻』(60)と『サラリーマン目白三平・亭主のためいきの巻』(60、共に鈴木英夫)の中篇2本が製作された。スリラーやサスペンスを得意にした鈴木英夫にとっては、喜劇やメロドラマは苦手なジャンルだったという大方の批評に反して、このシリーズは案外手慣れた演出を披露し、落ち着いて観られる好篇に仕上がっている。職人の腕といったところか。

続いて田坂具隆の『雪割草』(51)。田坂は現在では忘れられた巨匠の一人であるが、その中でもこの作品の知名度は低い。ところがアジア、特にインドでは『雪割草』は、黒澤明の『羅生門』と並んで、戦後のインド映画に大きな影響を与えた日本映画の名作として、その名をとどめている。原作はジアーニ・フラー。仲のよい夫婦が物語の主人公。夫の留守中にひとりの少年が手紙を持ってやってくる。妻が手紙を読むと、その子は夫とかつて関係した女性との間に生まれた子供で、この子を育てるのに疲れてしまったから、手紙を持たせて夫婦の家にやったのだという。その子供の出現は夫婦の関係を微妙にものにしていくが・・・。夫婦の心理描写に重点を置きながらも、ケレンのない田坂の誠実な演出は、嫌味がなく、繊細そのもの。田坂の美質が最もよく出たホームドラマの傑作ではないだろうか。  監督の本質がよく出た作品でいえば、渋谷實の『青銅の基督』(55)も同様。決して成功作ではないが、途中から話が脇に逸れてしまい、竜頭蛇尾になってしまうところなんか、初の時代劇でなおかつふさわしからぬ大作であるにもかかわらず、渋谷の特徴をよく表わしている。助監督に就いた石堂淑朗の証言では、やたら脚本に時間がかかったそうだが、主役となるはずの南蛮鋳物師をほっといて、どんどん転びバテレンのほうに興味が移っていくものだから、出来上がった映画も中心を欠く奇妙な映画に仕上がっている。喜劇だか悲劇だか分からないようないつもの渋谷實スタイルの映画なら得心もいくが、慣れない時代劇でなおかつ外人まで出演する大作とあっては、失敗作となるのも当然。そこに渋谷らしさを発見することができて興味深いのである。

このほか気になるところでは、『江戸の夕映』(54、中村登)、『新遊侠伝・遊侠往来』(51、佐伯清)あたりをチェックしたい。

日本映画専門チャンネルでは、「市川雷蔵 現代劇全仕事」に『陸軍中野学校』シリーズ全5作、『ある殺し屋』シリーズ全2作、『若親分』シリーズ全8作を一挙放映する。いつでも観られる作品ばかりだが、まとめて観ることでよく理解できたりすることもあるのがシリーズ映画のおもしろさだから、この機会にぜひ

チャンネルNECOでは、「ザ・シリーズ」として宍戸錠の「稼業」シリーズ全3作が登場する。『ろくでなし稼業』(61、斎藤武市)、『用心棒稼業』(61、舛田利雄)、『助っ人稼業』(61、斎藤武市)である。赤木圭一郎の事故死、ケガによる裕次郎のダイヤモンド・ライン離脱の穴を埋めるため、脇役だった錠は主役に躍り出て、次々とアクション映画に出演することになる。「稼業」シリーズはその記念碑的作品で、パロディ満載のコミカルなアクションがすっとぼけた錠のキャラクターと渾然になって、軽快な作品となった。第1作目が最も優れているというのは衆目の一致するところ。

「ようこそ新東宝の世界へ」は、『恋しぐれ秩父の夜祭り』(61、山田達雄)、『隠密変化』(59、加戸野五郎)、『汚れた肉体聖女』(58、土居通芳)の3本。前2本は未見。『汚れた肉体聖女』は、今ならやおい系マンガファンの間でカルト映画になりそうないかがわしさがぷんぷん匂う映画。修道女のレズビアンを描いた作品である。演じるのは皇后女優・高倉みゆき、大空真弓、原知佐子(!)。新東宝倒産後、日活ロマンポルノの尼僧ものと東映の『聖獣学園』(74、鈴木則文)のみがこの系譜を受け継いでいるが、『美しい庵主さん』(58、西河克己)、『春泥尼』(58、阿部豊)など、同じ年にこれだけ尼僧ものが作られたのは・・・謎だ。

「名画 the NIPPON」からは、日本映画では珍しい本格的ミュージカル『君も出世ができる』(64、須川栄三)、異色ハードボイルド『みな殺しの霊歌』(68、加藤泰)、『恋の阿蘭陀坂』(51、鈴木英夫)、『路傍の石』(64、家城巳代治)と、どれも録画しておきたい作品ばかりのラインナップ。

『君も出世ができる』はハリウッドの『努力しないで出世する方法』(66、デヴィッド・スウィスト)に先立ち、菊田一夫が日本にも本格的ミュージカルを根付かせようと1962年に東京宝塚劇場で上演した「君(あなた)にも金儲けができる」の流れにあるミュージカル・コメディで、東宝お得意のサラリーマン映画をミュージカル仕立てでやってしまうという心意気に感動する。フランキー堺が歌うメインテーマである「君も出世ができる」のみならず、高島忠夫が歌うサブサーマの「タクラマカン」、雪村いづみが歌う「アメリカでは」など、個々のナンバーも素晴らしいが、そのメリハリのあるアンサンブルが最高によい。

『みな殺しの霊歌』は、加藤泰作品に通底する清純なものを踏みにじるものに対して「許せぬ!」という気持ちが、最も純化された形で出たハードボイルド。全編を覆う異様な《昏さ》には思わず引き込まれそうになる。加藤泰の松竹時代を代表する作品の1本であるとともに、『独立愚連隊』シリーズと並ぶ佐藤允の代表作でもある。必見!

『恋の阿蘭陀坂』は、ほとんど観ることのできなかった鈴木英夫の大映時代の作品。旅回りのサーカスを舞台とするメロドラマという会社からのお仕着せ企画(川口松太郎企画)は、リアリズムを基調としたスリラー/サスペンス監督である鈴木英夫の得意とする題材ではなく、監督本人も多くを語っていない作品であるが、鈴木英夫が『蜘蛛の街』(50)に続いて、木村威夫と組んだ作品であり、木村威夫の証言によれば、かなり実験的なセットを組んだという。ストーリーを読むかぎりでは、当時の大映東京らしいかなり時代錯誤的な物語だが、その中で鈴木英夫がどれだけ自分らしさを出しているかを確認したい。

『路傍の石』は、戦前の1938年に田坂具隆の名作があり、戦後は3回映画化されているが(55年原研吉監督、60年久松静児監督、64年家城巳代治監督)、その中で最も優れたものだろう。もっともロクな作品を残していない原研吉にしろ、彼の中では比較的優れたほうの部類に入る映画であるから、田坂と並んで誠実な演出が持ち味の家城であれば、この程度のお手のものであろう。ただし、淡島千景は少々ミスキャストの気がしないでもない。

東映チャンネル(http://www.toei.co.jp/cs/)には、『紀州の暴れん坊』(62、中川信夫)、『花と龍』(65、山下耕作)、『続花と龍・洞海湾の決斗』(66、山下耕作)が登場する。『紀州の暴れん坊』は、8代将軍吉宗の若き日を描いた作品。吉宗に松方弘樹。未ソフト化で、上映プリントも長らくなかったレア作品なので、楽しみである。『花と龍』2部作は、何度も映画化されている火野葦平の同名小説の映画化。佐伯清版(藤田進主演)は未見だが、マキノ雅弘版(高倉健主演)はよかったし、舛田利雄版(石原裕次郎主演)もよかったし、加藤泰版(渡哲也主演)は今イチだったけど、個人的にはこの山下耕作版(中村錦之助主演)がいちばん好き。錦之助はヤクザ映画に対して距離を取っていたので、『日本侠客伝』(64、マキノ雅弘)にもゲスト出演のような感じでしか出演していないが、この作品の主演を演じたのは、主人公の玉井金五郎がヤクザものではなく、沖仲仕であるためだろうか。意外や錦之助の任侠映画悪くない。

同じく東映チャンネルの現代劇からは『顔役』(65、石井輝男)が登場する。脚本は、笠原和夫、深作欣二、石井輝男という巨匠の名前が並んでいるが、実はこれには裏があって、この作品はのちに『仁義なき戦い』シリーズでコンビを組む深作&笠原が組んだ最初の作品であり、当初は深作が監督するはずであった。それが笠原と深作の間で意見が衝突。深作はストレスから胃潰瘍で倒れ、急遽“お助け請負人”石井輝男が監督に起用された作品なのである。正月封切りのオールスター・キャスト映画であることから、石井輝男のギャング映画の集大成と紹介されることも多いが、ヤクザ映画なのかギャング映画なのかよく分からない、それでいてやっぱり石井輝男映画という不思議な映画になっている。石井輝男といえば、最近は《異常性愛映画》を観てから、それ以外の石井映画を観て「意外に普通」とかいうファンが多くなっているようだが、いや「普通」じゃないって。石井輝男はどこまでいっても石井輝男なのだ。