鈴木英夫〈その3〉逢沢譲














久しぶりにキャメラマンの逢沢譲さんにお会いした。1995年に鈴木英夫研究会を結成したとき、鈴木監督を囲む親睦会にお招きして以来だから、実に11年ぶりになる。年賀状のやりとりはしていたので、お元気であることは承知していたが、つい生活などというくだらないもののために忙殺され、ずいぶんとご無沙汰してしまった。それが昨年の成瀬巳喜男生誕100年記念の一環として放映された関係者へのインタビュー番組に逢沢さんが出演なさっているのをテレビで見て、久しぶりに連絡を取って、お会いすることを思い立ったのだ。いつもながら怠惰で申し訳ない次第である。

逢沢さんは、1924年11月9日、岡山県生まれ、というから今年で82歳になる。1944年、東宝第2撮影所に入所。東宝第2撮影所というのは、円谷英二が所長を務める東宝の特撮部門である。1946年、東宝砧撮影所に移籍。円谷英二の下で、『ゴジラ』(54、本多猪四郎)などの特撮映画に参加したのち、鈴木英夫監督の『社員無頼 怒号・反撃篇』2部作(59)で撮影技師に昇進。以後、鈴木監督とは、『非情都市』(60)、『黒い画集・第2話/寒流』(61)、『その場所に女ありて』(61)、『旅愁の都』(62)、『暁の合唱』(63)の計6本でコンビを組む。

鈴木監督以外では、助手時代から仲のよかったという岡本喜八監督の『独立愚連隊』(59)、『独立愚連隊西へ』(60)、『どぶ鼠作戦』(62)、『月給泥棒』(62)、『戦国野郎』(63)のほか、黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』(60)、成瀬巳喜男『乱れ雲』(67)、恩地日出夫『若い狼』(61)、『あこがれ』(66)、『伊豆の踊子』(67)、『恋の夏』(72)、川島雄三『イチかバチか』(63)、須川栄三『颱風とざくろ』(67)、『サラリーマン悪党術』(68)、『ブラック・コメディ ああ!馬鹿』(69)、『日本人のへそ』(77)、福田純『大日本スリ集団』(68)、『野獣都市』(70)、『ゴジラ対メガロ』(73)、『ゴジラ対メカゴジラ』(74)などの作品の撮影を手がけた。特撮マニアにはTV『ウルトラセブン』(67)の撮影監督としても有名である。

逢沢さんは、このところ体調がすぐれないとのことだったので、あまり形式ばったインタビューはやめにして、思いつくまま気の向くままの雑談ということにした。事前にお送りしたビデオテープはビデオデッキが故障していて、作品を再見できなかったとのこと。インタビューで私の突っ込み不足だと思われる部分は、これらの事情に起因するところが大きいので、またの機会を見つけて改めてお話を伺いたいと思う。とはいうものの、逢沢さんのお話はあっちこっちに飛び、また同じところを何度も旋回ながらも、鈴木監督のみならず、日本映画史にとっての貴重な話も含まれており、鈴木監督に関する部分だけを掲載するにはもったいないように思ったので、できるだけ整理して、前半部は鈴木監督について、後半部はそのほかの話という2部構成にして掲載する。


■鈴木英夫監督について


――最初に鈴木英夫監督と一緒にお仕事をされたのは何ですか?

逢沢 僕がキャメラマン助手のチーフで就いた『花の慕情』(58)が最初だったかな。鈴木さんは大映からいらした、いわば外様ですね。プロデューサーの藤本眞澄さんが東宝へ引っ張ってきたんです。期待をされていた部分もあるけど、生え抜きじゃないから異端児だと思われていた部分もあったんじゃないでしょうか。でも、バックには藤本さんがいたからよかったんでしょう。鈴木さんは東宝に来て監督した最初の作品『魔子恐るべし』(54)で、キャメラをやった鈴木斌さんと折り合いが悪くてね。ケンカをしてうまくいかなかったらしい。それで僕が応援で手伝ったのが最初の出会いになるのかな。鈴木さんは気難しい人で、なかなか合う人がいないんだね。それで『花の慕情』のときもキャメラマンの飯村正さんと合わなくて、助手の僕にばかり声をかけるんです。僕のほうが信用があったということですかね。『花の慕情』では、撮影中に僕の女房のお袋が死んでね。それを聞いた鈴木さんが僕に帰れと言うんです。僕は「いいから居させてください」と言うのに、鈴木さんが「それじゃいけない」と言って、僕はロケ先から帰されたんです。しかもみんなに香典をもらってね。それで葬式をすませてから、またロケ先に戻って撮影に復帰しました。だから融通が効かなくて頑固だというだけで本当はシャイでやさしい人なんです。

――まあ、鈴木さんはあまり人づきあいがうまい人ではないですね。それで逢沢さんは鈴木さんの『社員無頼』で撮影技師に昇進されるんですが、これは最初から「怒号篇」「反撃篇」の2部構成だったんですか?

逢沢 いや、どうだったかな。よく覚えていないけど、おそらく最初から前・後篇にするつもりだったんじゃないですか。『社員無頼』では大阪ロケがありました。それで夜間撮影があって、待ち時間の間、喫茶店に入ったら、そこはメニューにビールがある喫茶店だった。それでビールを飲んだら、酔っぱらっちゃってね。そうしたら「準備ができました」と助監督が呼びにきたんで、慌てて喫茶店を出てキャメラを回したんです。確か群衆の中を手持ちで盗み撮りする場面だったと思います。佐原健二が酔っぱらって歩く場面だったかもしれません。僕もビールで酔っぱらっていたから、手持ちのキャメラがフラフラするんだね(笑)。それをまた鈴木さんが誉めてくれるんだ。酔っぱらった感じが出てるって。

――その佐原健二はかなり鈴木さんに絞られたそうですね。

逢沢 鈴木さんは好き嫌いがはっきりしている人だからね。自分の演出プランに合わない役者は徹底的にシゴく。何回もテストをやってね。でも、俳優さんも何回もダメ出しされてテストばかりやっていると、逆にアガちゃって、コチコチになってセリフを忘れたりするんですね。そう僕らが意見を言っても、鈴木さんは言い出したらきかない頑固な人だから聞く耳持たない。それでスタッフのみんなからちょっとケムたがられている面はありました。でも、僕とは不思議にウマが合って、鈴木さんの家に遊びに行ったりするぐらい仲良くなって、それからずっとコンビを組むことになったんです。「ヌイさん、ヌイさん」といつも僕を指名してくれた。

――鈴木さんはお酒を飲まないでしょう? 普段は何をなさってたんですか?

逢沢 何をしていたのかなあ。鈴木さんはコーヒー好きでね。よく喫茶店には付き合わせられました。大阪のOSに鈴木さんの友だちがやっている喫茶店があって、コーヒー豆を送ってきていたようです。麻雀? 鈴木さんは麻雀はやったかなあ。やったような気もします。僕はよくやりました。僕の家の近所にコント55号がいて、僕は彼らが売れていないころから仲がよくてね。いつも麻雀のメンバーが足らないって呼び出されてね。あいつはそのじぶん麻雀で食ってたんだから。それから彼らの映画(『コント55号 俺は忍者の孫の孫』、69、福田純/『コント55号 宇宙大冒険』、69、福田純)の撮影を担当することになってね。ファンが押しかける中をかきわけて麻雀をやりに行きました。でも、僕はいつも負けてばかり。女房のお袋に麻雀だけは止めてくれと懇願されました。

――鈴木さんとは事前の打ち合わせはされるのですか? 画コンテを描いて見せるとか。

逢沢 それはやりません。鈴木さんは画コンテを描かなかったなあ。横目でチラッと見ると、台本に(カットを割るところに)線を引いたりはしていましたけど。

――鈴木さんは構図にはうるさいほうですか?

逢沢 うるさいけど、いったん信頼すると、あとはキャメラマンに任せてくれます。僕は信用されていたから、好きにやらせてくれた。ほかのキャメラマンはうるさくてかなわんと言っていましたからね。

――『非情都市』は三橋達也の東宝移籍第1作ですね。

逢沢 あれは撮影の帰りに、三橋さんが交通事故を起こしてね。目白だったかな。学習院の裏のあたりか。一緒に乗っていた助監督が入院するぐらいの事故だったような気がします。でも三橋さんにはケガがなくて、撮影が中止にならなくてホッとしました。

――三橋さんの移籍第1作ということで、やはり鈴木さんは絞ったりしたんですか?

逢沢 そうでもなかったような気がします。あの人は勘がよくてうまいから。それで三橋さんは射撃をするでしょう。休みの日なんかに出かけて猟をしたりするのが趣味でね。大島で獲ってきたといって、鳥を土産にもらったことがあります。それで僕は三橋さんと射撃場で競争したことがあるんです。そうしたら僕が勝っちゃった。僕は軍隊で狙撃手だったから銃を持たせればうまいんだよ。僕のせがれがまだ小さい頃に空気銃で雀を落として、それを焼き鳥にして食べさせたことがありますもん。その頃なら百発百中です(笑)。でも、料亭で食う雀はうまいのに、どうして家で食べる雀は不味いんだろうね(笑)。

(注記:三橋達也は日本クレー射撃協会の本部理事を務めた腕前。射撃指導員の肩書きもある。)

――『非情都市』では、鈴木さんの好きな奥行きの深いタテ構図がうまく使ってありますね。画面手前で司葉子がストッキングを脱ぐ場面はドキドキしてしまいました。

逢沢 そう? 忘れちゃいました。

――『その場所に女ありて』は逢沢さんにとって初めてのカラー作品ですね。

逢沢 そう。でも僕はそれまでにテスト班の研究員として、シネスコもカラーも経験していたから心配なかった。

――『その場所に女ありて』はフジカラーですが、使い勝手はいかがですか?

逢沢 本当はイーストマンやアグファが発色はいいんですよ。でも、あの頃は高かった。船でフィルムを日本に輸入していたから、そのぶんだけコストがかかるんだね。それで国内ではフジカラーとサクラがシェア争いでセールスがすごかった。ぜひ、わが社のフィルムを使ってくれというわけ。それでこっちも経験だからいろいろやりました。

――『旅愁の都』は、当時はまだアメリカだった沖縄で撮影された作品です。

逢沢 だからパスポートを取る必要があった。それで製作主任がパスポートを取れなかったんです。僕の姉さんの主人というのが県庁の秘書課長をやっていたんですが、その人に頼み込んだら一発でパスポートが発行されてね。それで僕はその係にさせられちゃった。沖縄では、米軍に話をつけ、軍用ヘリをチャーターして空撮を撮りました。前日に米軍キャンプの司令部に行って、壁一面の俯瞰地図写真を見ながらこちらの希望のコースを示したんですが、撮影禁止区域が多くて困りました。それで撮影禁止区域では撮影しないことを条件に、こちらが適当にキャメラを回すことになりました。撮影当日は天気が悪くって、小雨が降っていたので、サンゴ礁が見える海から陸に侵入するコースをざっと一巡しただけ。僕はもう少しキャメラを回したかったんだけども、これ以上はこの天候ではできないといわれてこっちも諦めました。沖縄ロケは正味1週間ぐらいだったと思いますが、外米が不味くってね。昼食に出される外米寿司と冷えたおにぎりに閉口して、鈴木さんと一緒に街のレストランに出かけて鳥の空揚げなんかを食べた覚えがあります。

――『旅愁の都』は宝塚作品ですね。もう1本の宝塚作品『暁の合唱』についての思い出はありますか? これは清水宏監督のリメイクですね。

逢沢 これは倉敷でロケをしました。暑い盛りでね。宝田明のバスの運転手と星由里子のバスガイドの話。ほとんどバスの中での撮影だから、蒸し風呂状態でとにかく暑かった。地方ロケでは、地元のヤクザに交渉して撮影がスムースにできるように挨拶しなくちゃいけないんです。それでこちらも新宿のそういった関係の若衆を連れていったんです。撮影中にヤクザに囲まれてね。この映画では藤原釜足さんの息子さんが製作主任をやっていたんですが、地元の放れ駒という名前のヤクザの親分に一緒に一升瓶を持って挨拶に行きました。ところがその親分のところは酒屋だったんだね。酒屋に酒を持って挨拶に行ったんだから、どうしようもないね(笑)。あとから分かったんだけど、広島の呉市の理容店で親分がピストルで撃たれる事件があって、それが広島と九州の抗争事件に発展し、倉敷のヤクザも緊張状態にあった頃だったんです。連れていった若衆には人除けを手伝ってもらっていたんですが、その話を聞いて「わいも考え直さなきゃなあ」と言ってました。それからふっとその若衆の姿が見えなくなった。怖くなって逃げたのかもしれません。


■特撮からCMまで


――逢沢さんは鈴木さんに限らず、岡本喜八さんとか須川栄三さんとか恩地日出夫さんとか、頑固だったり、偏屈だったりで有名な監督と組まれることが多いですね?

逢沢 それは僕が我慢強いからでしょう(笑)。喜八ちゃんとは、お互いに助手だった頃に、谷口千吉さんの映画で、夕方穂高に行ったことがあります。そんときに監督になったら一緒にやろうと約束しました。

――それは何という映画ですか?

逢沢 忘れちゃった。それで穂高に行ったんですが、本当は夜だから危ないから許可が出ないんだけども、喜八ちゃんと予告編を撮るつもりで登ろうよということになったんですね。そうしたら山は太陽が沈むのが早いでしょう。麓を見たらいい具合に太陽が沈みかけている。いいチャンスだと思って、それを撮ったんです。そうしたら電報がきて、「予告編が好評だ」というわけです。そういうことがあって喜八ちゃんとは、穂高の頂上で「お互い1本立ちしたら、一緒にやりましょう」と約束しました。それで『独立愚連隊』シリーズでコンビを組むことになったんです。

――逢沢さんはもともと東宝の第2撮影所に入所されたんですよね。

逢沢 いや、本当は東京発声なんです。それが戦争中の統合で東宝になって、僕は円谷英二さんの下で特撮班になったんです。僕はそこから撮影所のみんなに見送られて、戦争に行った。スクリプターの国分という人が、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴といった東宝の錚々たる大スターのサインを日の丸に書いてもらって、軍隊にいる僕に送ってくれました。

――軍隊ではどちらに配属されたんですか?

逢沢 最初は南方要員として神戸で船を待っていたんですが、なかなか船が出ない。それで空襲のたびに地下鉄に逃げ込んでいたんです。そうしたら「今度の兵隊は火ひとつ消してくれず、地下鉄に逃げ込むだけだ」なんて悪口をよく言われました。それで船が出ないんで、内地の防衛で突撃部隊に配属になって、部隊のひとつは広島や九州方面に配属になり、僕の部隊は相模湾の防衛をすることになりました。広島に配属になったら原爆でやられていましたよね。それで僕は生きて帰ってくることができたんです。それで撮影所に戻ったらすぐにストライキ。戦車に囲まれてすごかったですよ。

――逢沢さんのアルバムを拝見すると、衣笠貞之助さんの『或る夜の殿様』(46)のスナップがありますね。

逢沢 ああ、それで僕は助手をやった。それから僕は原節子の兄貴だった会田吉男というキャメラマンと仲がよくて、その人によく就きました。最初に会田さんに就いたのは『シミキンの無敵競輪王』(50、西村元男)という映画。そのときは、ミッチェルを手回しで回しました。モーターのバッテリが重いから競輪場で撮影するにはそのままでは難しいというんでね。それで生まれて初めて競輪場へ行った。それでスタッフもみんな車券を買うんだね。僕は「逢沢」という自分と同じ名前の選手の車券を買った。ところがずっと撮影していたら、その逢沢という選手の自転車がぐんぐん後ろから出てきて、トップになっちゃってね。僕は自分で車券を買っているから興奮してキャメラのクランクを回すのに力が入っちゃって、スピードが速くなってね。でもそれがよかったらしい。結果的に、選手が日陰から日向に抜ける場面でキャメラスピードが上ったものだから、露出がよくなって、監督に誉められた(笑)。ケガの功名というやつだね。そんなこともありました。

――会田さんはその後、撮影中の事故で亡くなりますね。

逢沢 そう。原節子の義兄の熊谷久虎監督が戦後初めて映画を撮るっていうんでね。それも原節子主演で。

――『白魚』(53)ですね。

逢沢 それに僕も就いたんだけど、事故のあった日の御殿場のロケにはどうしたことか僕は行かなかったんです。それでプラットホームの外れで撮影するからと駅員に連絡していたらしいけど、会田さんは線路に降りてポジションの検討をしていたらしい。電車を運転しているほうもまさか線路の真ん中に人がいるとは思わないから、気がついたときには会田さんは撥ね飛ばされてほとんど即死に近い状態。スタッフは慌ててホームによじ登ったりして助かったけど、それでもひとりは足にケガをした。けど会田さんは妹の原節子の目の前で撥ね飛ばされて死んでしまった。本当なら僕もそこにいて、一緒に事故に遭ったかもしれないんです。運がよかったとしかいいようがない【注記1】。

――その事故のあとも、熊谷さんは『白魚』を原さん主演で完成させて、原さんは続いて小津さんの『東京物語』(53)に出演なさるわけですから、ずいぶん気丈ですよね。またこういうことを知って『東京物語』を見直すと、原さんの演技が何か微妙に違って見えるような気がします。『東京物語』で原さんが演じたのは未亡人という役ですから。

逢沢 本当だね。まったく人のめぐり合わせというのは紙一重で分からないものだね。


【注記1】事故が起きたのは1953年7月10日(『白魚』のクランクインは6月6日)午後7時頃。御殿場の駅構内で『白魚』を撮影中、線路上でキャメラ・ポジションを決めようとしていた会田吉男ほかスタッフを下り列車929号が轢いた。スタッフの連絡ミスと運転手の連絡ミスが原因だと思われる。会田は御殿場の北駿病院に運ばれたが、翌11日午後1時15分死去。義兄が監督する映画を撮影中、二番めの実兄にあたるキャメラマンが自分の目の前で列車に轢かれ、死ぬという悲劇を経験した原節子は、その1週間後の7月20日からクランクインした小津安二郎の『東京物語』に出演する。


――ところで、逢沢さんのことを鈴木さんは「ヌイさん、ヌイさん」と呼んでいらっしゃいましたが、そもそもそのアダナは誰がつけたんですか?

逢沢 「アイさん」なら分かるんだけど、なんで「ヌイさん」なんですかね?(笑)。それは黒澤明さんにつけられたような気がする。黒澤さんが最初読み間違えて、「逢沢(あいざわ)」を「縫沢(ぬいざわ)」と読んだらしい。それで僕は、「〈逢染夢子〉の〈逢〉沢です」と言ったんだけど、黒澤さんは聞く耳を持たんからね(笑)。それで「ヌイさん」というのが僕のアダナになったように思います。黒澤さんには『七人の侍』(54)のキャメラを手伝ったことがあるんです。どうでもいいような「抑え」のキャメラとして手巻きゼンマイのアイモというキャメラを持たされて。黒澤さんが馬が画面に入るまでロングを撮っとけと言うから、ロングを撮っていたら、助監督さんが火をつけると同時に馬が入ってきちゃった。こちらはゼンマイのキャメラでしょう。すぐに終っちゃうし、慌ててもう一度ゼンマイを巻こうとしたんだけど、間に合わなかった。そうしたらキャメラマンの中井朝一さんが黒澤さんのところへ行って謝ってこいと言うんです。それで撮影後に黒澤さんに謝りに行ったら、黒澤さんはビールを飲んでいた。それで僕はしゅんとして失敗したことを謝ったら、黒澤さんは「いいよ、いいよ。あんなところは藁があればいいんだから、明日、またおまえに撮らせてやる」と言われて、翌日はゼンマイのアイモではなく、監督命令でちゃんとしたミッチェルのキャメラを持たせてもらって撮り直させてもらいました。あれで僕はいっぺんに黒澤さんが好きになっちゃった。

――特撮班では何をなさったんですか? この写真は『ゴジラ』のスナップですね。

逢沢 そう。キャメラは玉井正夫さん。成瀬さんのキャメラをやっていた人だね。僕は撮影助手として、水中場面を撮影するために潜水服を着て、潜ってキャメラのテストをしました。そうしたら何も映っていない。あれ、これはおかしいということになって調べたら、レンズに水滴がついて刷りガラスみたいになっていた。それで一度キャメラを船の上にあげて、キャメラを入れた鉄の容器にコンプレッサーから空気を入れて、箱を密閉し、それからキャメラを沈めたらレンズの曇りがなくなった。でもそのままキャメラをおっ放っぽっておくわけにはいかないから、僕がまた潜水服を着て潜って操作するわけです。そうしたら今度は突然僕のところに空気が来なくなった。命綱を引っ張っても引き上げてくれない。潜水服の腰のところに空気を調整するバルブがあるから、間違って閉めたんじゃないかと慌てて確かめてバルブをひねったら、いっぺんに空気が噴き出して、その勢いで気を失って、気がついたら海上に浮かんでいました。陸には漁師さんたちが待機していて「いざとなったら飛び込んで助けます」と言っていたのに、「こん畜生!」と僕は思って「もう止めた!」と言ってやろうかと思ってたら、僕を引きずりだしてからみんなで土下座して謝るんだ。そうなると僕も何も言えなくなって、イヤでイヤで仕方がなかったけれども、翌日からはまた潜ることになりました。

――そのほかにはどんな特撮をやったのですか?

逢沢 立体映画。最初、赤と青の2色フィルターで青山ボウリング場を映したりしましたが、技術部と相談して、タテとヨコの偏光フィルターを使ってやる方式に変更しました。

――青赤方式のは、劇映画ではないですね。

逢沢 試作品みたいな作品。日劇で上映したような記憶がある。

――偏光フィルター方式のは劇映画ですか?

逢沢 う~ん、覚えがない。

――1953年に、東宝では2本の偏光式フィルター方式の立体劇映画『飛び出した日曜日』(53、村田武雄)と『私は狙われている』(53、田尻繁)の2本を〈トービジョン〉の名称で製作し、封切っています。立体技師は岩淵喜一さん。撮影は2作とも安本淳さん。【注記2】

逢沢 それですかねえ。岩淵さんと安本さんの下に就いてやったような気はするんですが・・・。


【注記2】〈トービジョンは前述のポラライザー(偏光板)を使用する方式によるものを採用している。2個の撮影機を並べ、レンズ間の距離を調整して求める視差にする為に特殊な光学的装置を付けている。従って2個のカメラに一条宛装填されている2条のフィルムによって、2条のネガティヴフィルムが作られる。此れは1組の2条のプリントに仕上げられる。フィルムが2条であるから映写機も2個必要とする。2個の映写機のシャッターの開角度は常に一致した回転をするように連結運転するように装置し、各々の映写レンズの前には光学的にお互いが直角になるようにポラライザーを付ける。スクリーンにはアルミニュウム粉末を塗布する。眼鏡に使用するポラライザーも映写機もレンズの前に付けるポラライザーも、中性灰色の淡いものであるから、色彩を制限することがない。従ってカラーフィルムの場合でも普通通りに使用できる。トービジョンは画が立体的に見えるばかりでなく、音も立体音響で再生される。録音時2箇所のマイクロフォンを置いて、両耳的録音を行い、再生に当っては録音時に2箇所にマイクロフォンを使用したと同様の方向を保ちつつ、2個のスピーカーから再生する。此の場合両スピーカーから出る音響の特徴は音量並に特性が異なるところにある。人物の位置、音源の位置、楽器の位置等が手に取るように知ることが出来る。〉(岩淵喜一「東宝の立体映画 トービジョンの話」~「キネマ旬報1953年4月下旬号」)。しかし、撮影システムの煩雑さ、上映施設設置のための設備投資がかさむこと、時代の流れが立体映画よりもシネマスコープへの流れへと興味が移っていることなどの点から、こうした立体映画の試みは急速に減退し、トービジョン方式の劇映画も『飛び出した日曜日』と『私は狙われている』の2本が製作されたに留まった。


――ほかに印象深い作品はありませんか?

逢沢 これは映画じゃないんだけれど、帝劇で「風と共に去りぬ」(1966年初演、菊田一夫作・演出、美術・伊藤熹朔)を上演したとき、背景をカラーの映像で映すことになりました。いわゆるバック・プロジェクションだね。それを円谷さんがやることになって、僕が手伝いました。夜の場面はライトがいっぱい必要になるから、擬似夜景でやるつもりだったけど――映画版も擬似夜景でしたからね。でも大映からなんといったか名前は忘れたけどもキャメラマンがきて、それを本当の夜に撮影しました。ほかに火を焚いてそれらしく効果を出したりしたことを覚えています。あとはCMですね。

――CMはフリーになってからですか?

逢沢 それ以前からだった気がするけど、どうだったかなあ。僕はマクドナルドの1号店が赤羽に出来るとき、そのCMを撮影しました。子供を使ったCMでね。子供はいうことを聞かないから演出家泣かせでね。それを僕があやして撮影しました。車を天井からピアノ線で吊って空を車が走るような設定でね。僕は特撮出身だからそういうのはお手のものなんです。そうしたらアメリカの本社から社長の娘というのが見に来て、そのCMを気に入って、次からは代理店を通さずに、直接僕を指名してくるようになりました。それからマクドナルドのCMはたくさんやった。たぶん、その繋がりだと思うんですが、東京ディズニーランドのCMも撮影しました。CMはけっこういいお金になりましたね(笑)。

マクドナルドの1号店は1971年7月にオープンした銀座店。逢沢さんの言う赤羽店というのは?

――特撮で学んだことを特撮とは関係ない映画に生かしたことはありますか?

逢沢 あのね、女優さんを脱がせることでそれが監督の力だと思う人がいますね。そういうのに僕は反対なんだ。ある映画で星由里子がヌードになる場面があった。


――須川栄三さんの『颱風とざくろ』(67)ですね。冒頭のシャワーシーンで、星由里子、ひし美ゆり子、桜井浩子たちがヌードになる。それから中盤で星由里子が全裸で窓を開ける場面がありました。どちらもほんの一瞬ですけど。

逢沢 まあ、だれのどの作品とは言わないけどもね(笑)。僕はああいうのは嫌いだから、レンズに油を塗って裸をぼかすようにして隠してあげたんです。そういうのは特撮で上から吊ってあるピアノ線が見えるのをレンズに油を塗って消したりしていたから、それの応用。

――そういえばシャワー場面はソフトフォーカスみたいでした。シャワーの湯気のつもりかなと思っていたんですが。油というのはワセリンかグリセリンですか?

逢沢 柳屋のポマード。レンズ前にガラスを置いてそこにポマードを塗るんです。女優さんを脱がせて自慢する監督もいるけど、僕みたいに女優さんの裸をできるだけ隠してきれいに撮るキャメラマンもいる。それでどちらが女優さんにもてるかといえば、僕みたいに隠してあげるほうがもてる(笑)。

――ここでちょっと木下亮監督のことを伺いたいんですが、先ほど話題に出た原節子さんと事故死なさった会田吉男キャメラマンのお兄さんですよね。あまり映画は撮ってませんが、『男嫌い』(64)と『肉体の学校』(65)はスタイリッシュでなかなか面白い作品でした。これ2作とも逢沢さんが担当されていますね?

逢沢 木下さんはテレビをたくさんやっているようですがね。木下さんとはその2本のほかに、もう1本やっています。アメリカの「ハッピー・クリスマス」とかいうカードがありますね。


――グリーティング・カードですか?

逢沢 それを売っていた印刷会社か何かが税金対策で映画を作ろうということになって、南方に一緒に撮影に出かけたことがあります。「なんでもいいから映画を撮ってくれ」と言われましてね。

――南方というのはどちらですか?

逢沢 (パラオの)コロール島というところです。それで役者もなし、シナリオもなしで、島の実景を撮影するということで行きました。僕は南の島に行って即興で撮るんだったら水中撮影も必要だろうと、組み立て式のメガネ――海女さんなんかが使うガラスを付けた木箱ですね。それを持っていった。それで全編に音楽を使って、今でいうイメージ・フィルムみたいにしようと、木下さんは音楽好きだから、バッハだったかな、もう使う曲は決まっていて、それに合わせて実景を撮ったんです。ところが実景だけじゃ持たないんですね。それで何を撮るかということになって小学生の女の子を現地で探して連れてきたら、木下さんが男の子もほしいと言い出して、それで男の子も探してきて、大きな海亀を使って浦島太郎にしようということになったんです。そんな思い出があります。

――それは完成したんですか?

逢沢 完成したけど、日本では公開されていないんじゃないですか。

――題名は……?

逢沢 さあ。

――今度、また調べてきます(IMDbにも掲載なし)。逢沢さんが撮影を担当された作品には、木下亮さんのほかに、その後あまり監督作のない新人監督では浅野正雄さんの『街に泉があった』(68)があります。

逢沢 三田明と乙羽信子が出てる映画。


――というよりも、黒沢年男と酒井和歌子が主演ですね。

逢沢 あれ、僕の好きな映画。感じのいいホームドラマでしょう。大入りになって、藤本(眞澄)さんから重役賞の万年筆をもらいました。娘に取られちゃったけど。

――お疲れになるといけないので、今日はこのへんまでにします。どうもありがとうございました。

2006年7月3日、清瀬の逢沢譲宅にて
インタビュー&構成:木全公彦

逢沢さんは思ったよりもお元気で、こちらの質問に快く答えてくれた。ただ話があっちこっちに飛び、時間軸も錯綜しているので、原稿にまとめるには苦労した。曖昧な部分は後日、お電話で質問したが、それでも不明の部分も多い。知っている方があれば、情報をお寄せいただきたい。

さて、ここで朗報。シネマアートン下北沢で、9月9日より10月6日まで「鈴木英夫特集」が行われるという嬉しいニュースが飛び込んできた。上映作品は『その場所に女ありて』、『彼奴を逃すな』など代表作を含む、スリラーを中心にした12作品。これだけまとめて鈴木英夫の作品が上映されることは滅多にない機会なので、未見の方はぜひ!