鈴木英夫〈その2〉金子正且




金子正且さんは、東宝の大プロデューサー、藤本眞澄の片腕と活躍し、小津安二郎の『小早川家の秋』(61)、木下惠介の『なつかしき笛や太鼓』(67)、成瀬巳喜男の『女の中にいる他人』(66)、『乱れ雲』(67)といった巨匠の作品から、1960年代には主に単独で新人監督の作品をプロデュースし、東宝の〈新しい波〉に一役を買ったプロデューサーである。鈴木英夫監督とコンビを組んだ作品は11本で最多。鈴木監督とは一緒に旅行に出かけるような間柄で、鈴木監督が亡くなるまで公私共に親しくお付き合いのあった方である。

藤本眞澄が東宝争議の責任を取って東宝を辞し、藤本プロを主宰したときは、藤本を助けるだけでなく、「並木透」のペンネームでしばしば原作・脚本も手がけた。このペンネームは、その後、藤本が銀座にオープンさせた名画座・並木座のプログラムに寄稿する元・藤本プロ同人の共同ペンネームとなり、1970年代に入ると金子さん単独のペンネームとして定着した。「映画芸術」の年間ベストテン/ワーストの選者に参加されていた時期があるので、興味のある人はバックナンバーを当たってもらいたい。

また、無類のミステリ小説愛好家として、日本で最も歴史の古いミステリファンの愛好サークル「SR(Sealed Room)の会」の会員でもあり、シリア人の作家、エドワード・アタイヤの処女作である、ミステリ小説「細い線」を成瀬に勧めて、『女の中にいる他人』をプロデュースしたのも金子さんである。

鈴木英夫監督以外で金子さんが手がけた、このほかの主なプロデュース作品は、市川崑『プーサン』(53)、堀川弘通『日蝕の夏』(56)、『青い野獣』(60)、須川栄三『野獣死すべし』(59)、『けものみち』(65)、岡本喜八『結婚のすべて』(58)、『江分利満氏の優雅な生活』(63)、恩地日出夫『若い狼』(61)、『あこがれ』(66)、『めぐりあい』(67)、出目昌伸『俺たちの荒野』(69)、西村潔『白昼の襲撃』などがある。プロデュース作品は企画名義を含めて全部で99本。

日本映画データベース 金子正且の項

金子正且さんがプロデュースした鈴木英夫監督作品は、『若い瞳』(54)、『殉愛』(56)、『目白三平物語・うちの女房』(57)、『危険な英雄』(57)、『燈台』(59)、『サラリーマン目白三平・女房の顔の巻』(60)、『サラリーマン目白三平・亭主のためいきの巻』(60)、『その場所に女ありて』(62)、『やぶにらみニッポン』(63)、『暁の合唱』(63)、『悪の階段』(65)の11本。

金子さんに関しては、すでに「その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事」(金子正且・鈴村たけし共著、ワイズ出版、2004年)、並木座に関しては「銀座並木座」(嵩元友子著、鳥影社、2006年)といった本が出版されている。本欄に掲載するのは、私が1995年に金子さんに行なった未発表インタビューから鈴木英夫監督に関する部分を抜粋したものである。


■『若い瞳』、『くちづけ』


――金子さんが鈴木英夫さんとの最初に仕事は『若い瞳』(54)なんですが、この頃はまだ鈴木さんは東宝の専属ではなかったんですよね?

金子 鈴木さんはその前に藤本眞澄さんのプロデュースで『続・三等重役』(52)を監督していて、これが最初の『三等重役』と同様にヒットした。その繋がりじゃないですか。

――『若い瞳』は宝塚映画の作品ですが、宝塚からの発注だったんですか?

金子 金子 そう。宝塚は自分のところで作る能力がないからこっちに頼んできたんです。だから八千草薫が出てるんだけど、彼女はまだ宝塚の現役まま出てもらったんじゃないかなと思いますね。八千草さんを借りに宝塚に行ったことは覚えてます。行ったら「今、稽古してますから」と言われて見たら、女性ばかりが稽古着で稽古してて照れ臭かったかったですね。

――筧正典さん、鈴木英夫さん、成瀬巳喜男さんが共同で撮ったオムニバスの『くちづけ』(55)の成瀬さんのパートに、八千草さんがノンクレジットでワンカットだけ出てきます。まだあれは八千草さんのデビュー前だったんですね。

金子 彼女は宝塚時代から娘役でスターだったですからね。『くちづけ』は成瀬さんがプロデュースもしているでしょう。それで筧さんと鈴木さんは成瀬さんを大変尊敬してたから、成瀬さんも一緒にやろうかということになったんですね。

――ということは、筧さんや鈴木さんは成瀬さんの指名でもあり、希望でもあるということですか?

金子 成瀬さんはあまり自己主張の強い人じゃないから、「どうしても」というんじゃなかったと思いますけど、自然とそういう流れになったんじゃないですか。

――『若い瞳』の話に戻りますが、主要スタッフとキャストは藤本プロの同人と契約者です。脚本は長谷川公之さんで、出演者は、八千草さんのほかに、伊豆肇、杉葉子、井上大助、小林桂樹。

金子 藤本プロで請け負った作品ですから、仲のいい連中に声をかけたのかな。


■『目白三平』シリーズ


――鈴木さんは、ほかにも前に千葉泰樹さんが東映で監督した『目白三平』モノを東宝で引き継いだ『目白三平物語・うちの女房』(57)やSPの『サラリーマン目白三平』の二本(『女房の顔の巻』、『亭主のためいきの巻』)も無難にこなしています。千葉さんのは目白三平が笠智衆で奥さんが望月優子、鈴木さんの作品では『うちの女房』は佐野周二と望月優子、それからSPのダイモンド・シリーズ【注記1】になってからの二本がまた笠智衆と望月優子に戻ります。これはどうしてですか

金子 う~ん、鈴木さんの最初のやつはフィーチュアだから、笠さんより佐野さんの方がスターバリューがあると思ったのかなあ。

――『目白三平』をダイヤモンド・シリーズにしようというのは、金子さんの発想ですか?

金子 予算もあまりかかる映画じゃないし、2本一度に撮れる企画だからということでダイヤモンド・シリーズにしたんじゃないかと思います。

――『うちの女房』は団令子のデビュー作です。ほかに鈴木さんの『不滅の熱球』(55)は司葉子の第2作(デビューは『君死に給うことなかれ』54/丸山誠治)です。やはり役者をしごくことで定評があったから、新人は鈴木さんに任せるという感じだったんですか?

金子 鈴木さんは役者を泣くまでしごくけど、不思議に女優に人気があったんです。司葉子とか草笛光子とか「先生、先生」なんて言ってましたね。

――成瀬さんは新しい人を使うとき、鈴木さんに司葉子や団令子の仕上がり具合を聞いてから起用したそうです。

金子 そうですか。それは初めて聞いた。


【注記1】「ダイヤモンド・シリーズ」は、1956年から約2年間、東宝が製作を開始した、1時間以下の併映用中篇映画のブランド。傍系の東京映画が製作した中篇映画は「パール・シリーズ」と呼称した。1952年、松竹が『伊豆の艶歌師』(西河克己)を第1作とするシスタア映画Sister Picture(SP)の製作を開始する。目的は、①全プロの実現 ②新人監督・新人俳優の育成 ③スタッフ・キャストを常に働かせることにより、他社に引き抜きの隙を与えない ④将来的にテレビに提供、という点にあった(③④は実現せず)。その後、松竹では、添え物というマイナスイメージを払拭するためにSPというブランドを廃止するが、中編映画の製作は継続し、『愛と希望の街』(59)で大島渚、『二階の他人』(61)で山田洋次らがデビューし、助監督の監督昇進への登竜門としての役割を担った。東宝では、当初、松竹のSPに対抗して、中篇映画「ブラザー映画」の製作を開始するが、傍系の東京映画、宝塚映画を含めて数本製作されたものの芳しい結果が得られず、すぐに中止になった。しかし、その後レンガ積み二本立て興行に対処するため、1956年に「ダイヤモンド・シリーズ」のブランドで中篇映画の製作を再開。松竹とは性格が異なり、新人ではなくベテランの監督を起用し、豪華な配役で、『鬼火』(57/千葉泰樹)、『下町(ダウンタウン)』(57/千葉泰樹)、『新しい背広』(57/筧正典)など、良質の作品を製作した。シリーズものでは1・5本の予算で2本撮り製作が行われたが、これはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』全9部作(52~54)で培われた経験によるところが大きいと思われる。

【付記】『目白三平』シリ―ズはダイヤモンド・シリ―ズではないようだ。

■『燈台』


――鈴木さんでは、同じダイヤモンド・シリーズで『燈台』というのがあります。これは三島由紀夫の原作ですね。

金子 あれは最初、筧正典がやるはずだったんです。それで筧ちゃんと脚本家の井手俊郎さんと僕の3人で大島にシナリオ・ハンティングに行ったんですよ。一泊だったかな。それで井手さんがすぐ脚本書いちゃって。それで急に安達英三朗さんに筧ちゃんが呼ばれて、司葉子で『良人の貞操』をやることになったのね。昔、入江たか子がやって大ヒットした作品(37/山本嘉次郎)。それで司葉子をスターにしようというんでね。それで大島から帰ったら、筧ちゃんが藤本さんに呼ばれて「君、こっちをやってくれ」って。『燈台』はダイヤモンド・シリーズだけど、あっちの方が大作だしね。それで鈴木さんは筧ちゃんとも仲がよかったから、鈴木さんにお願いしたら「いいですよ」ってことになったんです。

――司葉子主演で筧さんが監督した『良人の貞操』という作品はないと思うんですが?

金子 これはね、結局潰れちゃったの。司葉子のオーケーが取れなかった。子持ちの役なんですよね。それが自分の印象と違うというんで、司君がどうしてもイヤだって。でも、もうこっちは『燈台』を鈴木さんで撮影を始めてましたから。


■『殉愛』


――鈴木さんはかなり粘って撮影なさると聞いています。

金子 もう時間外ばっかり。定時で終わったことなんかないですね。とにかく役者をシゴいてね。泣くまで絞る。佐原健二なんかよくやられてました。さっきも言ったけど、でも不思議に女優には人気があるの。本人は非常にシャイでしたけどもね。それと鈴木さんは粘ってカメラマンともやりあったこともある。安本淳さんってカメラマンがいるの。それで鈴木さんが肩ナメで撮りたいって言うのを、安本さんが「そんな手法はない」って言うのね。その頃、肩ナメなんていう手法はあんまりなかった。それを鈴木さんがどうしてやりたいと。肩ナメで撮ると肩がボケてしまって、カメラマンがすごくイヤがったのね。それで揉めるっていうんじゃないけど、随分やりあっていた記憶があります。結局、鈴木さんが押し通したんじゃないかな。

――それは『殉愛』(56)のときのことですか?

金子 そうだったでしたかね。『殉愛』っていうのは興行的に失敗しましたけどね。鶴田浩二が、その頃、野球チームを持っていて、撮影の合間に野球をやっててケガをして撮影が中断してね。それに鶴田にはお付きがゾロゾロいて、うるさかった。

――鶴田浩二がケガしたニュースは当時の映画雑誌にも載ってました。撮影が中断したみたいですね。これは戦闘機の出撃シーンで円谷英二さんの特撮が使われていたので、撮影も大変だったと思います。

金子 鶴田が特攻隊とかに夢中だったでしょ。それでああいうのをやりたがったんです。まあ、真面目な鈴木さんと派手好きな鶴田じゃあんまり合わないですよね。

――鈴木さんの場合は題材が合うと傑作になるんですが、本来不器用なのに何でも撮らざるを得なかったところが仇になっているように思いますね。


■『悪の階段』


金子 この間、『やぶにらみニッポン』(63)を見直したのね。あれは完全に失敗作だった。全然、鈴木さんの企画じゃなかった。あの頃は量産だったから、鈴木さんでいいやって頼んでしまったのかもしれません。『悪の階段』(65)なんかは鈴木さんの脚本でしょ。そういう場合はいいのね。でも、『その場所に女ありて』(62)に較べると、ちょっとテンポが悪いかなあという気がする。『その場所に女ありて』はテンポもよくて、おもしろく見られるのね。

――『悪の階段』は限定されたワンセットの舞台を主軸にしてサスペンスでしたね。団令子の悪女ぶりが圧倒的で。

金子 そうね、出だしのところなんかフランスのフィルム・ノワールみたいでね。それで映画の照明というと東映の時代劇みたいにベタに明るいのが多いでしょ。僕、そういうの大嫌いなの。要するに光源が――太陽が当たればそこに光が差したり、電気を点ければそこから光が来るとか、そういうのがないと駄目なんです。鈴木さんはリアリズムの人だから、そういうところはちゃんとしてる。

――当時としては珍しくモノクロ・スタンダートで。

金子 よくプロデューサーがオーケーしたね、と鈴木さんは言ってますけどね。

――成瀬さんが『女の中にいる他人』(66)を撮るとき、キャメラマンの福沢康之さんは、その直前に製作された『悪の階段』が同じモノクロ・スタンダートだということで、完倉泰一さんから端尺のフィルムを拝借してテストしたそうです。

金子 そういうこともあったかもしれませんね。福沢さんは完倉さんの助手をしていましたから。

――原作は南條範夫さんの「おれの夢は」ですね。のちに同じ原作で西村潔さんが『マドンナの復讐』(91)というVシネマを撮っています。

金子 それは知らないなあ。西村もそういうサスペンスはうまいんだけどねえ。

――『マドンナの復讐』は『悪の階段』と比べると凡作です。


■『その場所に女ありて』


――鈴木さんの代表作といえば、やはり『その場所に女ありて』でしょうか。これは傑作ですね。もともとは升田商二さんという方のオリジナル脚本ですね。

金子 増川さんって言うんですよ、本当は。升田というのはペンネーム。増川さんは宣伝部でポスターとかの絵を描いたり、デザインをしていた人ですよね。それから黒澤さんのタイトルの字とか。『隠し砦の三悪人』とか黒澤さんの映画は独特の字体があるじゃないですか。それを書いてた宣伝部のデザイナーです。それでこの人がシナリオを書いた。助監督が中心になってやっていた同人誌「アンデパンダン」にそれが載った。それを鈴木さんが読んで、自分で手を入れて撮ったんです。

――プロデューサーとしては結構、冒険な企画だったんじゃないですか? 女性が主役で出演者は華やかではあるんですが、ハードボイルド・タッチで、醜い競争社会を描くなんていうのは。

金子 まあ、僕は『野獣死すべし』(59)とか『けものみち』(65)とかもやってますからね。そういう意味では僕は変わったプロデューサーだったかもしれません。量産時代だから新しものがりやの僕にも隙があったんですよね。

――これは電通がモデルだと聞いてます。第1稿ではもっとえげつない話だったらしいですね。

金子 増川さんというのが宣伝部の人だったから、自分の見聞きした話を書いたんでしょう。そう思いますよ。増川さんは鼻っ柱の強い人でした。脚本はあれ一本しか書いてませんがね(注:その後、長谷和夫監督の1967年松竹作品『日没前に愛して』の脚本を小林久三と共作している)。

――司葉子が煙草を吸ったり、麻雀をやったり、お嬢様女優とは思えない役どころで。脱皮を図ろうとしてたんですかね。

金子 そうね。それでまたいいですよね。司葉子って『乱れ雲』が代表作だと思ってましたけど、最近見直してみて、こっちの方が代表作だったんだなあって思いましたよね。

――大塚道子のキャスティングは絶妙でした。「俺」なんて職場で言ってて。

金子 そうねえ、それが抵抗がなくていいですよね。「俺、俺」って。あの頃は随分、新鮮な感じを受けたでしょうね。

――大塚道子は新劇系の人ですが、鈴木さんが起用したんですか?

金子 あれは僕だったかな。僕は芝居も好きでよく見るから、こういう人がいると鈴木さんに推薦したんじゃないかと思います。

――この映画はブラジルのサンパウロ映画祭で外国映画審査員特別賞にあたるサシー賞を受賞していますね?

金子 そうなの。あの頃、東宝はパリにもニューヨークにもロスにもハワイにも支社があった。南米にはサンパウロ、それからリマ。リマなんか支社といっても駐在員が二人いるだけですよ。それからもちろん香港にもありました【注記2】し。今は全部ないですよ。でも、どうしてそんな映画祭に出品することになったのかなあ。

――でも変なんですよ。調べてみると、『その場所に女ありて』の翌年には、筧正典さんの『妻という名の女たち』(63)、その次の年は須川栄三さんの『けものみち』(64)がサシー賞を受賞してるんです。ずっと日本映画が独占で、それも東宝作品。3本とも金子さんのプロデュース作品でしょう?

金子 そうねえ、変だね。どうしてそうだったのか。筧さんの『妻という名の女たち』って、なんか性病の話があったんじゃないですか?

――そうです。司葉子と小泉博が夫婦役で、小泉博が外に愛人がいるんです。それが左幸子。それで離婚の調停に弁護士のところへ二人で行くんです。司葉子は昔、夫の小泉博に性病を移されて以来、セックスを拒否するようになり、それで小泉が愛人を作ったということを弁護士に話すという映画です。「清く、正しく、美しく」の東宝には不釣合いの内容でビックリしました。

金子 そうですよね。よくあんなのやったよなと今思うですけども。そういうセックスの話なんかね。左幸子はよかったですよね。そんなのがどうしてサンパウロで賞を取ったのかなあ。

――当時のサンパウロには日系人が多くって、日系人専門の日本映画ばかり上映する映画館があったみたいですね。サンパウロには松竹の駐在所もあったようですが、数の上でも資金力でも東宝が強かったみたいです。3年連続サシー賞受賞というのは、東宝のロビー活動の成果じゃないでしょうか。かなり胡散臭い受賞ですが(笑)。

【注記2】東宝の海外進出は、まず1953年、ロサンゼルスに国際東宝株式会社を設立し、1954年には外国部を新設したことが皮切りになっている。1950年代後半になると、各地に支局、駐在所が設置される。1958年に、サンパウロに東宝南米有限会社、香港に東宝影業有限公司、1959年にニューヨークに国際東宝事務所、1960年にはペルーのリマに駐在員事務所が置かれ、そのほか、那覇、ホノルル、台北、バンコク、ジャカルタ、マニラ、ローマなど10ヶ所以上に駐在員が派遣された。また各地で東宝映画祭を盛んに開催し、藤本眞澄プロデューサーを始めとしてスタッフやスターが各地の映画祭に出席する。サンパウロには同じ時期、松竹の駐在所もあったが、東宝の活動の方が目立ち、駐在所の数も圧倒的に多かった。1967年には、輸出に貢献したとして、東宝は通産省から映画界では初の「輸出貢献企業認定証」を受けている。


■『危険な英雄』


――話がそれたので、鈴木さんの話に戻します。『危険な英雄』(57)はいかがですか。

金子 これも「アンデパンダン」に載った脚本が元になってるの。まだ助監督だった須川栄三君が書いたやつ。それを僕が読んで「これはよく出来てる脚本だな」と思ったんです。それで藤本眞澄さんに勧めて読んでもらったんです。そうしたら藤本さんも「うん、よく書けてる。須川はうまいな。だけどね、こんなの商売にならないよ。まあ石原慎太郎でも出りゃ別だけどな」と言うんです。僕は別の役者を考えていたんだけど、彼は『日蝕の夏』で役者をやってるから、それでもいいかなとも思ったし、断われてもともとだと電話してみたんです。彼、四谷の洋服屋にいましたけど、そこへ出掛けて行って脚本を読ませたんです。そうしたら彼は「やってもいい」と言うんでやることになっちゃったわけ。石原慎太郎がやるっていうで、鈴木さんはびっくりしてる。ちょっと迷惑だったんじゃないですかね。でもそれでやることになったから、鈴木さんは石原慎太郎を呼んでキャメラテストやメイクの感じなんか見てる。あの人は慎重な人ですからね。

――石原さんはもう小説家として一本立ちしてたわけですよね。

金子 でも、映画に非常に興味を持っていた。役者もやりたかったし、監督もやってみたいと思ってたんじゃないですか。書く方は時間の調整が利きますからね。

――鈴木さんは当初仲代達矢をイメージしていたらしいですね。それが石原慎太郎になっちゃったから、ライバルの役に仲代を使った。

金子 当時はまだ仲代は新人に近かったし、石原慎太郎の方が知名度もあるからね。そりゃ、仲代が主役をやっていた方がよかった。慎太郎さんには悪いけど、下手だから。

――そうですね。それでもドライな仕上がりでいい作品でした。芥川也寸志さんの音楽も『第三の男』のチターを意識したギター1本で。

金子 そうね。芥川さんは五所平之助さんとのコンビが有名だけど、鈴木さんとのコンビも多いのね。それで鈴木さんの作品になると、いろいろ実験的なことを試したりしてる。

――『彼奴を逃すな』では、プリペアード・ピアノを使っていました。

金子 宇佐美仁さんがプロデュースした作品ですね。それは観ていない。僕は『黒い画集 第二話 寒流』(61)ってあったでしょ。あれは感心したな。

――『寒流』は尺の関係で30分以上若尾徳平さんのシナリオを削ったらしいですね。「よくできた脚本だから残念で、申し訳ないことをした」と鈴木さんがおっしゃってました。

金子 そうなの? あれは三輪礼二君のプロデュースだね。『黒い画集』シリーズは三輪君が松本清張さんからまとめて原作権を買ってきたのね。それで最初の堀川弘通さんのがヒットしたんで、短編集に入っているほかの小説も映画にしたんじゃないかな。

――撮影現場を離れると、鈴木さんと金子さんはよく一緒にご旅行なさる仲だとか。

金子 年寄り二人でね。鈴木さんは現場を離れるととっても人見知りをしてシャイなのね。お酒は飲まないけど、すごいコーヒー党でね。それとヘビースモーカー。

――映画全盛時代の監督にしては、あまり作品数がないのが残念です。もっと鈴木さんのスリラーやサスペンスが見たかった気がします。

金子 そうね。鈴木さんの出世作になった『蜘蛛の街』(50)なんかおもしろかったものね。当時はけっこう評判になったのよ。。

――残念ながらその当時キネマ旬報が休刊中でして、『蜘蛛の街』は基本的なデータもないんです。もちろん批評もない。とりあえずキネ旬は一義資料だから、そこだけ空白なんですね。もっともキネ旬復刊後も、鈴木さんが新東宝で撮った『殺人容疑者』(52)は出演者のデータも載っていない。丹波哲郎の主役デビュー作なのに。

金子 ずいぶん不遇だね。まあ、僕がやっていた頃は、下から岡本喜八っちゃんや須川君、それに恩地日出夫とか新しい監督が出てくるようになったでしょう。僕も新しものがりやだから、そういった若い人と組みたいという気持ちが大きかったのかな。奥さんが癌になったとき、鈴木さんは看病のために仕事を休んだんじゃなかったかなあ(注:2度の結婚歴のある鈴木監督の最初の夫人は、新興キネマの看板女優だった美鳩まり。亡くなったのは1962年9月9日だから、鈴木監督が「看病のため仕事を休養した」というのは金子さんの記憶違い)。藤本さんはミステリやスリラーみたいなものがあまり好きじゃなかったし、僕としても鈴木さんに合わない企画を押しつけるようにことになったりして申し訳なかったなあ、という気はします。まあ、当時では仕方がないんだけれども。

1995年、品川にて収録
インタビュアー&構成:木全公彦




本インタビューの元になったのは、金子さんのプロデューサーとしての映画人生をトータルに記録すべく、私が1995年、約10回にわたって行なった体系的なインタビューである。インタビューは、金子さんの住む品川の喫茶店や品川プリンスホテル、金子さんのご自宅などで行なわれ、インタビューした内容を私がさらに国会図書館等で雑誌や新聞を調べてチェックするとともに、関係者に傍証取材をし、次回のインタビューで金子さんに再度矛盾点や疑問点をぶつけてみるという形を取った。

まとめたインタビューは、詳細な注釈を付けて、その年に映画本に定評のある出版社計4社に企画書を添付し、原稿とともに持ち込んだが、すべて断られた。その翌年、まとめた原稿をバラして再構成し、老舗の映画雑誌で連載する話も出たが、最初にまとめた原稿と、担当編集者の要請で連載用にバラして再構成した原稿の4回ぶんを一緒に送付した直後、担当編集者が配置転換になり、編集部を離れたので棚上げになってしまった。くたびれもうけという奴である。

私がインタビューをまとめた金子原稿を抱えてジタバタしている頃、つまり1996年、鈴村たけし氏による金子さんへの聞き書きが北海道・札幌のミニコミ映画誌「RAYON」で始まった。この連載は、2004年「その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事」として書籍にまとめられた。1998年にはフリーライターの嵩元友子氏が並木座についての取材・調査を開始し、本人があとがきで曰く“難産の末に”その成果をまとめた「銀座並木座」を2006年に上梓した。

2冊の書籍に関しては、鈴村・嵩元両氏のお仕事に対して敬意を払うとともに、出版にこぎつけられたことを素直に喜びたいと思う。インタビュアーや書き手が異なれば視点やアプローチが違ってくるのは当然だから、内容に関して異議を挟むつもりはない。しかしながら、ただでさえ厳しい出版業界にあって、売れることが見込まれない映画関係の書籍は、小津や黒澤などトレンドの固有名詞に関係した書籍ならいざ知らず、内容がダブれば後発の書籍を出版するのは無理というのが常識である。ましてや監督や俳優ではなく、プロデューサーの本である。いくらそれに先駆けたインタビューで、詳細であっても、出版の可能性はまずないと考えるのが自然だろう。

というわけで、私の金子原稿は、ほかの多くの未発表取材テープや陽の目を見なかった原稿が投げ込まれたダンボール箱にしまい込まれることになった。“難産”どころか“流産”になってしまったわけである(ああ、“水子”の多さよ!)。

誤解されると困るので、断っておかなければならないが、私に僻みや嫉妬や諦念の気持ちは微塵もない(ホントだってば!)。そういや、金子さんがプロデュースした岡本喜八監督の『江分利満氏の優雅な生活』も最初はオクラ入りだったよなあ、と思うだけである。

しかし、私の取材には、「その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事」が触れていない事柄――金子氏の京大学生時代の演劇活動(「なよたけ」の作者・加藤道夫との交流、役者として金子さんが学生演劇で活躍したことなど)、藤本プロがテレビ放送黎明期にテレビのクイズ番組の構成を請け負っていたこと、戦中に東宝系列の製作会社であった「南旺映画」を戦後に名前だけ復活させて、そこで金子さんが斎藤達雄監督(!)作品をプロデュースしたこと【注記3】、「僕たちの失敗」を須川栄三監督で映画化する際に、原作者の石川達三の間に生じたトラブルのこと、フランスの撮影所視察旅行でルイ・ド・フュネス主演の作品の撮影風景を見学した話、東宝の職能機構や待遇の実体および給与・報酬の具体的金額や契約条件等々、私の脈絡のない無責任な突っ込みに対する金子さんの貴重な証言が含まれており、それはもったいないなあと思うのだが、私の好奇心を満たしてくれたのだから、それはそれでいいと思っている。これらは機会があればどういう形が分からないが、差し障りのない範囲で随時発表していくつもりでいる。

【注記3】南旺映画は政友会代議士である岩瀬亮を政治的背景とし、その兄である新興財閥森轟昶の資本を得て、1939年に創立された独立プロ。1941年、内閣情報局の命令で映画会社が3社に統合されると、成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』(41)を最後に、南旺映画は東宝に吸収され、2年10ヶ月の活動に幕を降ろす。1952年、戦前の南旺映画で総務課長の職にあった松井政吉が新たに「南旺映画」の名前で独立プロを設立する。資本金50万円。契約社員に清水宏の蜂の巣プロダクションのキャメラマンで知られる古山三郎の名前がある。劇映画では斎藤達雄監督『純情社員』(53)のほかに大映で中編劇映画『少年ケニア』(54/岩沢庸徳)を製作したほか、主にPR映画・文化映画などを製作した。

なお、金子さんへの取材に際し、先述したように疑問点などを傍証の形で関係者に取材したが、その過程で鈴木英夫監督についてもいくつかの証言を得ることができた。それも今後随時アップしていく予定でいる。