映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第74回 「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」物語 その4

中山康樹著『マイルスを聴け!バージョン8』

アルバム『ラウンド・アバウト・ミッドナイト レガシー・エディション』

アルバム『ミセラニアス・デイヴィス1955-1957』

中山康樹著『マイルスを聴け!2001』

小川隆夫著『マイルス・デイヴィスの真実』
伝説のニューポート・ライヴ、その評価のズレ
全然知らなかったのだが「ニューポートのマイルス・デイビス1955-1975」“Miles Davis at Newport:1955-1975”(SONY)というありがたいアルバムが絶賛発売中。ひょっとしたら前回の締め切り時点では出回っていなかったかも、というくらいの新作アルバムである。これは同レーベルから連続リリース中のマイルス「ブートレグ」、つまり海賊盤シリーズ第4弾で、タイトルから分かるように「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」にマイルスのグループが出演した際のライヴ音源を幾つか収録したもの。別に二十年間出っぱなしだったのではない。この間に何回か出たわけだ。
マイルスの死後、続々と彼の未発表音源が発掘され市場に出回るようになった。未発表音源というのは大ざっぱには二種類あり、一つはマイルスがスタジオでレコーディング・セッションを行いながら何らかの事情で発表しなかったもの、そしてもう一つは各地の演奏会のライヴである。前者は「発表しなかった」ことについてマイルスの意思が作用していると考えるのが自然だが、後者はそういうのと根本的に違う。各地で勝手に個人録音したものを、勝手に後から出す。良いも悪いもないし、出来も不出来もない。だいいち本人は91年に死んでいるから文句のいいようがない。もちろんマイルス音源であるから好演も数多い。優秀なメンバーを揃えながらスタジオでのセッションを行わなかった時期もあり、この時代のマイルス・グループはライヴに頼るしか聴けないパーソネルのパフォーマンスがある。故・中山康樹の著書「マイルスを聴け!」シリーズがそのへんを徹底的にチェックして批評し、読者(オーディエンス)に供していることは前回述べておいた。中山の著書は彼の逝去に伴い「バージョン8」(双葉文庫)で打ち止めとなったが、こういう風にまだまだマイルスのアルバムは出てくる。
といって、今回、別にこのアルバムのこまごました各音源の出自を紹介していこう、とか考えているのではない。ただ「ブートレグ」シリーズとは言いながら、有名な公式音源も数曲含まれていて不思議ではある。ブートと銘打った方が「売り」になるのだろうか、まあそんなことはどうでもよい。実はこのアルバムの最初が前回のラストに記しておいた1955年のニューポート・ライヴなのである。
整理しておくと、ここで演奏された「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」(ネット検索タイトルRound Midnight―Miles and Monk at Newport7/17/55)がアヴァキャン兄弟(音楽プロデューサーのジョージと映画編集者アラム)に感銘を与え、レコード会社コロンビアとの契約に導き、ひいては彼をスターにした、と。で、彼の同社最初のアルバム「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」“Round About Midnight”(原盤COLUMBIA)につながり、それで最近リリースされた「同 レガシー・エディション」にはボーナス・トラックとして、このニューポートで演奏された伝説的な同曲が収録されている、と。そういうこと。前回さらに「ミセラニアス・デイヴィス1955-1957」“Miscellaneous Davis,1955-1957”(JAZZ UNLIMITED)というブートもちらっと名前だけ挙げておいた。話はここから始めよう。

この海賊版は全12曲収録されていて、冒頭からの4トラックが同フェスの音源だ。①デューク・エリントンによるイントロダクションに続いて②「ハッケンサック」“Hackensack”、③「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」、④「ナウズ・ザ・タイム」“Now’s the Time”である。つまり一曲だけじゃなかったわけで、色々なミュージシャンが登場するジャム・セッション形式、あくまでその内の一曲。ここで今回も中山の「暴言」を引用する。今回使ったのは「マイルスを聴け!2001」(双葉文庫)である。あとがきから類推するに多分これが92年(単行本初版)、95年、97年に次ぐ、ということで「バージョン4」に相当すると思われる。

マイルスの死後、ブートレグがドッカンドッカンと出たわけだが、アコースティック・マイルス者には、これなど待望の音源ではなかったろうか。なにしろズート・シムズにジェリー・マリガン、セロニアス・モンクにレスター・ヤング(これはニューポートとは関係ない。上島注)と、いわゆるメインストリーム~モダン・ジャズを飾る人気ミュージシャンとマイルスの共演が、これでもかと入っている。(略)しかし、そんなことでひるむ必要はない。(略)これ、いわゆる伝説のライブ。(略)マイルスが一夜にしてスターになったと伝えられているからだが、そんなにすごいか。まったく気合の入っていない、たんなるジャム・セッションではないか。マイルスだけではない。全員がたるんでいる。肝心の「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」にしても、ほとんどマイルスとモンクのデュエットみたいなものだが、緊張感もへったくれもない、ただ吹いているだけ。

それを言っちゃあ・・・。ジャム・セッションというのはそういうものだから。でもダメ押しでもう一言。これは「暴言」派の中山に対して「知性」派の小川隆夫(何しろ本職がお医者さん)の著書「マイルス・デイヴィスの真実」(平凡社刊)から引用。彼も評価に否定的である。

その場に居合わせていないぼくには、この演奏が、そこまで言われるほどの名演とは思えない。この程度の内容なら、マイルスはすでに何度もレコーディングで残しているし、以後の演奏でこれを超えたものなどいくらでもあるからだ。

「ミセラニアス・デイヴィス1955-1957」は93年にリリースされたようだが、何しろブートだから誰でもそう簡単に聴けたわけではない。かく言う私もずっと後になって聴いている。つまり順序としては中山、小川の「辛い」評言の方をはるか以前から知っていた。そういうシロート(私のことだが)は多かったはずだ。名演であったか否か、それを知ることをある時点まではほぼ諦めていたようなところもある。
ところが今ではブートどころかネットでも聴けるし、とうとう公式アルバムにまで収録され、興味があれば誰でも聴ける。それが良いことか良くないことか簡単には言えないが、ともあれ皆さまもまず各々お聴きいただきたい。そんなに言うほど悪くない、というのが大方の感想だと推察する。結局「伝説の現場」ってのはそういうものなんだと思う。要するに聴き方の立ち位置次第。後年の批評家はそれをアルバムで追体験するだけだから客観性の方が勝ってしまい、判断の基準が厳しくなってしまうわけだが、そういう厳しい判断のさらに後から来る我々には「いや、結構いいでしょ」となってしまう。どちらが「正しい」といった問題ではなくなっているが、ただし我々の聴き方には、根本的に厳しさという基準が失われかけている気もするのだ。先行する批評家が期待を込めて聴いた(そして失望した)音源を今や、「あんなものまで上がってた」という次元でしか対応できなくなっていて、ネット環境の充実はかえって「ああ、あれね、知ってる」で終わってしまう危険をはらんでいる。ネットにはこの時の「ナウズ・ザ・タイム」も検索タイトルMiles Davis Sextet Now’s The Time(Newport Jazz Festival 1955)でアップされているので興味のある方は聴いてみていただきたい。