映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第65回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼その3
和ジャズとは
本コラムで時々「和ジャズ」という言葉を用いることがある。何の定義づけもなしに使っている。よく考えたら私自身あまり「分かって使って」はいない。今回はこの件から始めたい。コンピレーション・アルバム「和ジャズPLAYS ジャポニスム」(日本コロムビア)の尾川雄介ライナーから引用する。

和ジャズの「和」とは、日本を意味する「和」と昭和の「和」をかけたものである。もちろん熱いハード・バップから流麗なピアノ・トリオまで、はたまたアグレッシヴなジャズ・ロックから抜き身のようなフリー・ジャズまでさまざまだが、多くのリスナーがそこに期待するのはコルトレーンやマイルスではなく、あくまで“日本人ならではのジャズ”である。だからだろう、和ジャズという呼称はただ音楽のジャンルを指すだけではなく、そこには自国の音楽に対する思い入れや贔屓のようなものを感じる。

なるほど。この言葉を全面的に定義として受け入れる必要はないにせよ、「和ジャズ」を構成する幾つかの要素は読める。否定的な言い方になるがまず「現在のジャズじゃない」ということだ。もっとも、これを逆に「じゃ、現在のジャズって何よ?」と問われても当方に答えが準備されているわけでもない。そこはひとまずスルーして、つまりジャズの音楽的内容の吟味は置いて、日本人(といってもフィリピン系とか朝鮮半島出身者系とかまで含むから国籍に厳密にこだわるものではないが一応日本を拠点に活動している日系の)ミュージシャンをリーダーにした、戦後四十年くらいのジャズ・アルバム、というのが大きなくくりになるのか。

「ジャズ批評」和ジャズ特集
雑誌「ジャズ批評」の和ジャズ特集(通巻ナンバー130、131)も1950年から1990年をアルバム対象にしており、時期的には何となく重なっているようだ。もっとも「ジャズ批評」誌に関して言えば戦後初期五年間はどういうことになっているのか、というのが分からない。また、昭和の前半つまり戦時中と戦前のジャズはどうか、とか幾つかの疑問点はある。戦前(戦時中)ジャズのことも「和ジャズ」とくくる視点もまた大いにありそうだが、それはそれとして「初期の日本ジャズ」としてまた別に捉えれば良し、という大まかなコンセンサスが認識されているということだろう。「和ジャズPLAYS」シリーズに関していうとだいたい60年代から70年代の音源が中心になっていて、つまり「これぞ和ジャズ!」というのが時期的にはここに集中している、とする解釈のようだ。だから大ざっぱにはこの二十年間くらいの時期を想定しておけば済む。
現在のジャズを想定しない(つまり昭和時代中後期のジャズに限定する)ということは、大ざっぱに言えば「懐かしのメロディー」ということで、ただし「それにしてはこれまで知られてこなかった、あるいは忘れられていた」ジャズとなるだろう。一時期は消滅するかとさえ思われていた「レコードというシステムと装置」がクラブDJ達によって見なおされ、個人的なオーディオ装置によってではなくパブリックなスペースで聴く(マニュアルな操作で変形されたりする場合もある)というスタイルで復活したのも大きい。もちろん聴衆にとってそれがレコードでなければならない必然性はどこにもないから、改めて評価された音源やアルバムはCDによる(初あるいは再発)リリースで潜在的な聴衆にも各レコード会社にも恩恵をもたらすことになった。
だいたいここ四半世紀くらいがそういう経緯で、そしてジャズの音楽的内容は問わない、これも和ジャズ定義には重要。「ディキシー」「スイング」「ビバップ」「ハード・バップ」「モード(新主流派)」「ジャズ・ロック(クロスオーヴァー。フュージョン)」「ウェスト・コースト」「アヴァンギャルド(フリー)」といったあらゆるタイプのジャズを想定して問題ない。歴史が無化され、全てが表層化されるというのはいわゆる「ポスト・モダン」と呼ばれる状況だ。だからネーミング自体は「懐かしのメロディー」風だが要するに「現在のジャズという視点を外したことですっきりと顕在化したジャズのポスト・モダン」が和ジャズだと言って良い。本コラムも戦前ジャズはひとまず別枠で扱うことにする。実は戦前ジャズの表層化・現前化こそポスト・モダンの典型なのだが。