映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第61回 『事件記者』から「ブーガルー」まで
映画泥棒と事件記者
ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショー『事件記者』特集も終盤に突入したが、とりあえず音楽を三保敬太郎が担当した初期全十本は終わった。前回コラムでは初期四本までを見てあったが、それからこの一カ月で見たのは『事件記者 影なき男』『同 深夜の目撃者』(共に59)『同 時限爆弾』『同 狙われた十代』(共に60)『同 拳銃貸します』『同 影なき侵入者』(共に62)の六タイトルである。
音楽を言葉で説明するのは難しい。正直に書けば説明するのが難しい、という以前にその違いを感じとるのがそもそも難しい。だからせっかく全部しっかり見たのにどれがどうだとも、どれがどれとどう違うともきちんと書けない。昔はこういう時に映画マニアは劇場にラジカセを持ちこんで映画を録音していたわけだが、最近ではこういうのは「映画マニア」じゃなく「映画泥棒」と呼ばれることになっているのでなかなか大変だ。ただ前回ラストに、三保敬太郎は作品ごとに音楽のコンセプトを変えようとしている、と書いたのは当たりだと思う。
映画音楽というのは、作曲家にとっては色々な音楽的実験をタダでやれるという長所がある。このシリーズではビッグバンドのジャズに弦を組み合わせるといった贅沢がふんだんに盛り込まれていて、三保としてもやりがいがあったはずだ。後述するように、当時三保は原信夫とシャープス・アンド・フラッツ等に作編曲を提供しており、キャリアは伸び盛り。ジャズマンも従ってその人脈から使えたし、その上、映画会社所属のオーケストラも起用できたから思う存分に腕を奮えたのであった。その他に、さらっと、気づいた点だけ述べておくと。『影なき男』では雅楽「越天楽」のジャズ版が神前結婚式の場面で、また『深夜の目撃者』では「ジングル・ベル」のジャズ版がクリスマス・イヴの場面で演奏される。こういうシャレが楽しい。一方、朝の場面の雰囲気醸成にコニー・ケイ風の軽いシンバル奏法をアクセントに用いるのはシリーズ初期からの常道だが、『影なき男』ではシンバルの使い方は似ていても、全くの新曲を投入していた。大型コンボというか小型ビッグバンドというか、割と重厚な編成で、そういう意味ではシンバルの音色と対比的な作りにしていた。それでいてタイトル部分では、あえてビッグバンドを使わずにトランペットのソロを冒頭にフィーチャーするクインテットでの演奏が心憎い。画面は、謎の車の動きを後から追うカメラワークであり、つまりもうこの時点で物語が始まっている。テーマ音楽でありながら雰囲気的な伴奏音楽でもあるわけで、当然ながらこれも新曲だ。
前回にも記したようにこのシリーズは音楽の使い回しが比較的少なく、いわゆるテーマ音楽という観念も希薄。同じテーマ音楽を使うようになるのも六作目以降ではないかと思う。それでも、ずっと見てきて気づいたことがある。前回コラムでも明らかな手抜きが見られる作品もあることを記してあるが、やっぱり二本か三本に一回手抜きがあるようだ。ハード・スケジュールのせいに決まっている。何しろ毎月リリースだからね、これはきついでしょう。手抜きというのは要するに新曲投入が少ないという意味で、それ以上でも以下でもない。そういうものだということで、別に非難しているわけではないよ。
具体的には『時限爆弾』が音楽少なめでその後の『狙われた十代』で盛り返す、といった感じ。『拳銃貸します』は前作から二年後のリリースで、ランニング・タイムも二十分増。当然予算もその分増え、作り方がぐっと大がかりになった。冒頭から実に無駄なガン・アクションが展開されるのがその証拠。日活映画史的に読めば、どうやらこのころモデルガンを盛大に使えるようになったのだな、と察しがつく。「モデルガン時代」以前というのは当然「実物」時代になる道理で、警察にそれを借りに行くシステムに熟知していたのが監督野口博志とその助監督鈴木清太郎(後の清順)である。これは余談。本題に戻ると、ここからテーマ音楽が替わる。さらにド派手なビッグバンド・ジャズになり、製作のスケールアップ感を増幅させている。そこでフィルモグラフィをチェックすると、シリーズが中断されていた二年間に幾つかの注目作があるのが分かる。

まず『すべてが狂ってる』(日活。音楽は前田憲男と共同。監督鈴木清順。60)、そして『花と嵐とギャング』(監督石井輝男。61)、『ファンキーハットの快男児』、『同 2千万円の腕』(共に東映。監督深作欣二。61)である。ちなみに、私が三保のハードバップ・ジャズに初めて惚れこんだ『女獣』(新東宝。監督曲谷守平。60)もここに位置する。正直に書くと、この時期の新東宝作品における三保の他の仕事も実は気がかりなのだが、見られないのが多くてどう分析しようもないのだ。要するに、見られるものでいろいろ考えるしかないということになる。以前、八木正生の仕事についてふれた第44回で、東映の、クレジットに名前が出ない音楽係が「八木と三保」を二人揃って当時の新東宝作品で注目し、その流れで自社作品に起用したのではないか、と仮説を立てておいた。この二人のジャズが「絶対に合う」と東映の音楽係が踏んだのは東映ならではの新しいタイプのギャング映画で、その最初の作品が『花と嵐とギャング』である。
ギャング映画というジャンルは大ざっぱにくくれば、スタジオ・システム下の日本映画界どこの会社にもあっただろうが、東映作品の新しさは親分子分のしがらみに基づく「ギャング団」ではなく、一人一人のチンピラを意味する「ギャングスター」と「ギャングスター」の関わり合いをストーリーの基調にした点だ。だから時には「ギャングスター」が「ギャング団」に刃向ったり、あるいは名門「ギャング団」のメンバーから単なる「ギャングスター」へと落ちこぼれたり、といった展開が容易に起きる。つまり「個」の映画。また、過去を引きずる裕次郎や流れ者のアキラのようなアウラを持たない「たかが個人」の映画、でもある。東映は63年頃から任侠映画が主流になり、こういったギャング映画――正確にはギャングスター映画――は傍系に追いやられることになるが、任侠映画が廃れると、70年代あたかもそのバリエーションであるかのように「実録路線」が、また当時の若者風俗に寄り添うような形で「暴走族映画」が、新たな「ギャングスター映画」として蘇る。当然このジャンルの中心監督が石井輝男、深作欣二であり、音楽担当者が八木正生、三保敬太郎であった。70年代の件は後述するとして、三保が二年ぶりに『事件記者』シリーズ新作を手掛けた62年、彼には、こうした新ジャンル映画にこそ映えるタイプのジャズという蓄積が既にあったわけで、突然のド派手なビッグバンドへの移行にもその影響を見てとることが出来る。分かりやすく言ってしまえば、『事件記者』という企画自体が社会派からアクション映画寄りへと少しだけシフト・チェンジされていて、それが音楽にも反映しているのである。石井と深作の映画にジャズで貢献したのは三保にとって何よりの弾みになったに違いない。
ただ『すべてが狂ってる』の場合がどうなのか。こうして続けて三保の映画ジャズを聴いてくると、同じジャズでもこれだけはずいぶん印象が異なる。妙に暗いのだ。やはり「異なる印象」の部分を前田が担当していると仮定すると、三保は本作にあまりタッチしていないのではないか、と思えてくる。