映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第60回 宿題やり残しだらけの年頭コラムです…本年もよろしく
マーカス・ロバーツ盤「ラプソディ」ライナーノーツを読む(続き)
前回はマーカス・ロバーツのアルバム「ポートレイト・イン・ブルー」“Portrait in Blue”(SONY)のライナーノーツを読むことで、彼の演奏する「ラプソディ・イン・ブルー」“Rhapsody in Blue”の歴史的、というか現代的意味を考えた。今回はまずその補遺として「ジャズマンが語るジャズ・スタンダード120」(小川隆夫著・全音楽譜出版社刊)に収録されている彼の言葉を引用することから始めよう。この書物はジャズ・ジャーナリスト小川隆夫が直接に内外のジャズマンにインタビューして、その肉声を伝えてくれるものである。

ガーシュインはブルースに造詣が深かった。黒人音楽に本気で取り組んだ白人作曲家のはしりのようなひとだからね。成果は黒人オペラの『ポーギーとベス』の音楽に集約されるが、その10年ほど前に作曲されたこの曲でも、いたるところで黒人音楽の影響や伝統が盛り込まれている。冒頭のクラリネットで吹かれるグリッサンドは、ちょっと聴くと非常にソフィスティケートされた、典型的な白人音楽のように響く。しかし、このメロディの出典はニューオリンズ・ジャズの「マスクラット・ランブル」だ。同じメロディは出てこないが、コード進行に痕跡が認められる。中盤では、もっと直接的な形でブルース・フィーリングが要求されるパートもある。こういうところはクラシックしか弾いたことのないピアニストじゃうまく表現できない。ガーシュインはこの曲をジャズ・ピアニスト、もしくはジャズにも造詣の深いピアニストを対象にして書いたんだろう。

と言っても、もともとこの曲はロバーツのようなモダン・ジャズ・ピアニストのために書かれたわけではない。初演はガーシュイン本人で、そのことは何度もふれてきた。にも拘わらず現代のジャズマンにインスピレーションを与えている、それが何より素晴らしい。このことを総括として記したうえであえて書いておきたいのは、この曲のジャズ的側面(カデンツァの部分に集約して表れる)でなくクラシックのパートにアレンジを加えたロバーツ・バージョンを基盤にした演奏のような冒険をクラシック音楽界にもっと望みたい、という点に尽きる。ネットで検索すると結構評価は曖昧だ、という話題は前回既に述べた。
それはともかく誰か何かまともなことを言っていないかさらに探ったところ、ピアニスト、エッセイスト、音楽学者でもある青柳いづみこのオフィシャルサイトにとても勉強になることが載っていた。初出は岩波図書2013年11月号の連載「どこまでがドビュッシー?(十三)」とのこと。これの前つまり連載十二から話題がつながっているのでそちらも含めてお読みいただければ。これは検索すれば自由に読めるので引用しない。ただここでもやはりジャズ・ピアニストがこうした折衷的な楽曲を演奏する場合の譜面処理に関する点が問題になっている。カデンツァでアドリブを取るとして、ではそれ以外の部分の譜面を彼、あるいは彼女はどう演奏するべきなのか、ということ。これについて青柳は間接的に大西とメールで話を聞けたそうだ。細かくみればそこには演奏技術的な問題もあるにはあるのだろう。とりあえず「難しい譜面を正しく弾く」のが前提の世界での話だから、譜面と違う弾き方をすればそれ自体が小スキャンダルたり得るわけでそれはそうだと思うが、ここではそういう件はとりあえず考慮に入れずに置く。
青柳に大西が語ったのは、自分のようなモダン・ジャズを基盤にして育った者には「ラプソディ・イン・ブルー」の持つラグタイム的側面がどうも居心地が悪い、ということらしい。そうなると譜面の読み方自体が変化せざるを得ない、ということになる。つまり譜面におけるラグタイム的要素をそれ以降のジャズの形に翻案するかのように弾きたい、という意味だ。この感覚は面白い。つまり先のマーカス・ロバーツならば絶対にそうは思わないはず。むしろジャズの遡源とでもいうべきこのジャンルの音楽的感覚はこれを演奏するための必要条件とみなされていたかもしれない。だから繊細に聴いていけば大西順子の今回の「ラプソディ・イン・ブルー」の現代的意義はそうした点でのロバーツ版との違いとしても感得できたのだろうが、私じゃそこまでは無理だった。
青柳のサイトではこの連載の続きではなく、新たにサイトウ・キネン・フェスがらみで発足した大西のジャズ勉強会の件もアップされているので興味のある方はこちらも必読。ところで小川のこの本の「ラプソディ・イン・ブルー」の項目には小曽根真のコメントも掲載されている。

譜面はあるんですけれど、オーケストラでも自分なりに変えるパートがいろいろあってもいいんじゃないかって。元々カデンツァがあちらこちらに用意されていて、そこでジャズ的な表現ができるんですが、そのカデンツァも勝手に増やすことで、自分の表現がもっとできるようになりました。(略)だから本来は16分くらいの演奏が、自分でやると30分近くになったりします。(略)メロディとかモティーフとかがいろいろ組み込まれている曲ですから、一番お馴染みの綺麗なメロディの次に出てくる速いテンポのところは夕立ちをイメージして弾いてみたこともあります。それをいかにクールに演奏してみせるか。それとブルージーな表現を要求されるところでは、どれだけいま風のブルース・フィーリングが表現できるか。チャレンジのし甲斐がいくらでもあるんですね、この曲には。

既に1973年にデオダートが、アルバム邦題「ラプソディ・イン・ブルー」“Deodato2”(CTI)においてこの曲のフュージョン・ミュージック化を試みて大いに成果をあげている。だがそれは例えば現代で言うとホルストの「木星」をポピュラー音楽にするようなスタンスであり、つまりクラシック音楽を巧妙に換骨奪胎するということかと思う。言い換えれば名曲をジャズの素材にするという方法論。しかし小曽根の言葉を読めばわかるように、マーカス・ロバーツ以後のジャズ・ピアニストは「ラプソディ・イン・ブルー」という曲によって、ジャズ・ピアニストのままでクラシック音楽の世界に侵入することが出来るようになったのだ。