映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第54回 60年代日本映画からジャズを聴く その12 趣味的ミュージックとしてのジャズ…?
音楽的身体感覚と八木ピアノ
前回の続き。ピアノ対ピアニスト、という話題を受け継ぐ形で、モンクの場合「ピアノをゆがめちゃってる」感じがすると山下洋輔は語る。「音楽の象徴、音楽の権化みたいな」楽器を「グチャグチャにして、自分の肉声に近づけていく」、それがモンクのジャズであると。この言葉はもちろん「山下のモンク観」だが、幾分かは「八木のモンク観」であり「八木の山下観」でもあった。次に引くように八木は「モンクによって山下のジャズが出来上がった、そういう部分がある」と言いたいのである。

「(山下)ジャズをやるについてピアノを選んでやったというのは仕方のない事なんですけど、そこでヨーロッパ流のピアニスティックな弾き方というのを追求し始めると迷路に迷い込む。ピアニッシモを弾く時に、特有の肘の動かし方とかフォームとかありますね。(略)あれだと別な所から表現を借りて来るみたいな気がして。ジャズの――とは言いません、自分のピアニッシモというのは、そういう弾き方じゃなくて、こうしといてポンと鳴らすとかね。」(略)「(山下)ジャズ用に妙なピアノを作っちゃって、それを持ち歩くっていうんじゃないんです。そこにあるちゃんとしたピアノを自分が行って、そうじゃないような音を出させてしまおうという。」(略)「(山下)つまりこういうことなんです。ちゃんとしたものがあって、それを自分が壊したい(笑)。」(略)「(八木)もしかしてモンクのような打楽器的な弾き方をする人が現れなかったら山下洋輔みたいな人も出て来なかった。」「(山下)かもしれない。例えば低音の方へ音を下げていって、それをうんとフォルテッシモで叩こうとするでしょう。そうすると右手が出ちゃったりするんですね。ああいうことをしてる時に、モンクのやったことを見てたんだなという気はしますね。」

楽器というものは、当たり前だが「道具」の一種であり、道具というものはとりあえず手(や口や足)の延長だったり代替だったりするわけだから、ピアノもそうした見地から規定され得る。でも「音が出るからと言って、じゃ、これホントに口の延長か?」と誰でも思うはずだ。そうした異和感の表明が山下洋輔のジャズ・ピアノの一側面であり、オリジナリティなのである。

ここまでずっと、八木の問いに触発された山下の発言を媒介にしてセロニアス・モンクのジャズを語ってきた。ややこしい。もちろん八木には八木なりのモンク理解があるのだが、端的に言えばそうした「八木自身の理解」のジレンマを打破するというか一点突破するために彼自身によって召喚されたのが山下だった、という前提が興味深いのだ。ここで一枚、昨年の暮れにCDとしてリリースされた八木の旧作「インガ」“inga”(キング・ヴィンテージ・ジャズコレクターズ・エディション)を聴いておこう。ライナーノーツは元々なく再発にあたっての解説もつけられなかったために、当時の日本ジャズ界の状況もそこでの八木の位置も今一つ不分明ではあるが、それらについては無視して彼のジャズと映画自体を語りたい。
この時代、映画音楽家としての八木は日本映画界全体の構造不況のせいで60年代前半ほどの売れっ子ではなかったものの、東映を中心にコンスタントに仕事をしていた。『青い性』(監督:小平裕、75)、『脱走遊戯』(監督:山下耕作、76)、『爆発! 750cc(ナナハン)族』(監督小平裕、76)等がこの時期の代表作と言える。使われた音楽は大ざっぱに言えばブラスロック、ジャズロックである。アルバム「インガ」もまたこうした「同時代的なジャズ」を追求しているのは間違いない。とはいえ前記の映画音楽のような陽気で軽快なロック調のジャズが全篇にわたって聴かれるわけではない。全九タイトル、同一曲のアレンジ違いが一曲あるので全八楽曲、全て八木のオリジナル曲から成る。AB面のそれぞれ冒頭をピアノソロとセクステットで飾るのは「メモリーズ」で、ラストはやはりピアノソロ「サッド・ソング」。緩やかな構成としてはブックエンド・スタイルとでもいうか、二曲のピアノソロで様々なタイプの楽曲をはさみこんでいる。前半は和風、後半はラテン調の傾向にある。

最もキャッチーなナンバーはB面二曲目「ブライター・ザン・ザ・カラー・オブ・ホワイト」で、多分当時の渡辺貞夫グループを意識したものだ。これは、従ってラテンというよりも「カリフォルニア・シャワー」(ビクター・エンターテインメント)風とすべきかも知れない。全篇でフィーチャーされているテナー・サックスは宮沢昭。アルト・サックスは鈴木重男である。八木のエレクトリック・ピアノもあくまでデイヴ・グルーシンっぽく決めている。これは確信犯だな。しかし急いで指摘しておかねばいけないのは、こうした当世風ナンバーで隅々まで統御するという発想はどうやら八木にはないらしい、ということ。言い換えれば「ナベサダ風」は一曲だけで十分、という。一曲「ナウい」のを入れておくというのは、基本的には営業的な見地からだろうが、それを必ずしもこれ見よがしなセールス・ポイントにしてはいないあたりが本アルバムの特色だ。付け加えるなら「カリフォルニア・シャワー」を意識したといってもそれは一つのもののたとえであり、具体的に楽曲を真似たのではない、むしろそうしたパスティーシュではなくあくまで八木オリジナルのメロディが溢れていることは記しておかねばならない。
自身のオリジナルで固めるというコンセプトはいわば「八木正生オリジナル集」であり、あるいは「八木プレイズ正生」と言ってもいいだろうが、コンポーザー&アレンジャーたる八木の78年現在の音楽的キャラクターを一気にお見せするというプランニングにこそ意味がある。つまり「ナウい」ヤツもあくまで八木のキャラのワン・オブ・ゼムになるわけだ。B面二曲目に対応するA面二曲目「ブロッサム・イン・ザ・ウォーター」の曲調も面白い。和風と既に記してあるが、その印象はここにフィーチャーされる(多分)フルートの音色にある。尺八っぽいのである。ジャズの尺八、というやり方も間違いなく一つの「和ジャズ」の定番としてあって、例えば「インガ」と同じシリーズにも「スタンダード・ボッサ/山本邦山、横山勝也、沢井忠夫、宮間利之とニューハード・オーケストラ」や「バンブー/村岡実」(共にキング)が含まれている。八木のオリジナリティは、尺八奏者にジャズを演奏させるのではなく別な楽器でその雰囲気を出すところに発揮されており、こうしたアレンジャー的な発想に本作の価値の一つがある。そう言えば既に「ジンク」という和風のジャズ楽曲というのもあったのを思い出す。
曲によってアコースティック・ベースとエレクトリック・ベースを使い分けたり併用したり、という方法論もピアニスト八木の、というよりアレンジャー八木だからこその、アイデアだと言える。同じ曲をソロピアノとセクステットの二バージョンで演奏し分けたり、というのもそうだ。ピアノソロを二曲入れてはいるものの、このアルバムには八木がピアニストとしての力量を全面的に提示する場面は思いのほか少ない。ことごとくが「ワン・オブ・ゼム」なのだ。本作が最初にリリースされた時の評価を実はよく知らないのだが、たまに出すアルバムで、これこそオレだというのを押しだすのではなく、むしろ様々なアレンジされた楽曲に本当の自分の姿をくらますかのような印象。こういうタイプの作品は評価されにくいのではないかと思う。
翻って考えるとアルバム・タイトルからして意味が不明である。どこかにヒントが含まれているかと期待したわけだが、そういう楽曲はそもそもない。「ジンク」のように「甚句」とすんなり日本語にできないのだ。今試しにコンピュータで漢字変換してみたところ「因果」「陰画」「印画」あたりが出てきたがこの中に正解があるのかどうか。それともカタカナのままで女の名前か。「インガ・スティーブンス」とか。もっとも、謎であること自体に意味があるのかも知れない。