映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第40回 60年代日本映画からジャズを聴く   その2 井上梅次のジャズ映画時代
山下、『嵐を呼ぶ楽団』と遭遇する
今回も「山下洋輔の文字化け日記」(小学館文庫)の一節からスタート。「謎月映画日」である。ちょっと長いのではしょりつつ引用したい。山下―富樫雅彦ラインからは少し離れてしまうのだが、遠回りして戻ってくることになるだろう。「思い出せないというか解決しないと非常に気持ちが悪い現象はよくある。旅先のホテルで時間待ちの午後に見た映画がそれだ。ジャズマンが主役の日本映画で、初対面のトランペッターとギタリストが路地裏で音で喧嘩をする場面があった。これが強烈なアドリブの応酬で、まさに楽器で渡り合うジャズマン忠臣蔵と同じコンセプトだ。さあ気になって仕方がない」。ジャズマン忠臣蔵って何のことだ、というもっともな疑問にいちいち答えていると話が進まないので、その件はいずれ。 さて山下洋輔はこの映画のことを映画評論家森卓也に会った際に聞いてみた。すると「後日、完璧な答えが返ってきた。作品は『嵐を呼ぶ楽団』(!)(略)音楽は多忠修と川辺公一。川辺さんは当時ばりばりのトロンボーン奏者だからこの関係で実力ジャズマンが音入れに集まったのだろう。先のペット対ギターの戦いなど、高柳昌行かと思うような音が一瞬した記憶もある」。
本連載第23回「ヌーヴェル・ヴァーグ旋風と日本映画(のジャズ)」でこの映画はタイトルだけだが紹介した。論述のキーポイントは本作の公開時期で、それは1960年2月28日であったということにある。論旨はそちらを読んでもらえれば良いわけだが改めて手みぢかにいえば、この映画がその時点でのジャズの古いタイプと新しいタイプを同時に提示するかのような作りになっているという点にある。監督は井上梅次。ジャズのタイプと言ってしまうと、かえって紛らわしいか。日本の「ジャズ映画の新旧」という意味あいでもある。後述するが、井上梅次は50年代に次々とジャズ映画を発表してきた。これはそうしたジャンルの最高峰と呼べる作品であり、時代としてはほぼそのおしまいに位置している。一方で井上は日活アクション映画の原基と言うべき『嵐を呼ぶ男』(57)の監督でもあった。これもまたジャズとは縁が深く、その映画ジャズ的な側面を強調した(白木秀雄、猪俣猛のドラムスにスポットを当てたもの)サントラ盤(スーパーフジディスク)も近年リリースされているのだが、今回はそちら方面には進まずにおく。いずれ取り上げることにしたい。
映画史的に見て『嵐を呼ぶ楽団』が『嵐を呼ぶ男』に対して取る位置は極めて興味深い。渡辺武信は「日活アクションの華麗な世界」(未來社刊)の中で似たタイトルの井上梅次映画『嵐を呼ぶ友情』(59)他この時点での近作三本に触れて(紛らわしいが『嵐を呼ぶ楽団』は東宝映画だからこの本に出てくるわけがない。評価も『楽団』とは無関係である、念のため。『友情』は小林旭の初期主演映画)、厳しい評価を述べている。以下引用。

井上梅次による三本は、いずれもプログラムピクチャーとしては無難にまとまっているが、ただそれだけという無気力な作品である。(略)いずれもヒーローは型通りの正義派である。(ただ、『嵐を呼ぶ友情』の主人公が、名トランペッターであった父の期待の重圧に苦しんで、グレてる部分だけに、日活アクションの主流らしき影がある)。これらの作品の低調さは、このベテラン作家が、日活アクションの世界において、すでに役割を終えてしまっていることを示しているようである。つまり井上梅次は、57年に彼が石原裕次郎のイメージづくりにあたって果たしたような役割を、小林旭に対しては果たし得なかったのだ。

今回はこうした日活映画史上の井上評価と、ジャズ映画史からの井上評価のズレをテーマにすることになる。