映画の中のジャズ、ジャズの中の映画    第11回 ノーマン・ジュイスン『夜の大捜査線』とクインシー・ジョーンズ(前篇)
既にちらっと触れたように、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンのコラボレーションはアメリカのポップス史を塗り替えた。

彼らを結びつけたのはダイアナ・ロスであり、映画『WIZ』(78)がその始まりだ。だがこの作品に到達する前に、クインシーはアメリカ映画に様々な貢献をしている。また意外なことにフランス映画にも。この連載ではそういった話題を伝記風にまとめるのではなく、楽曲やアルバムと作品との関わりを中心に語っていくつもりである。歴史的な記述としても話が前後することがありそうだ。今回は彼の初期の代表作『夜の大捜査線』(67)を聴きながら、彼のそこに至る歩みをおさらいしようと思う。

クインシー・ジョーンズは今やアメリカンポップス界のドン、とかゴッドファーザー、とか呼ばれる存在になったが、それがこの四半世紀くらいのこと。ドンもゴッドファーザーも要するに「大ボス」ということで、マフィアを連想させる言葉だが、70年代以降はごく普通に良い意味で用いられるようになった。マイケル・ジャクソンをプロデュースし『オフ・ザ・ウォール』を大成功させてからのクインシーに相応しい称号だが、それも今だから思えること。当時グラミー賞の授与式(テレビ中継された)でマイケルが尊敬をこめてクインシーの名前を挙げた時の日本のジャーナリズム側の反応はいま一つ鈍いものがあった。

どういうことかと言うと、その時、彼がアメリカ黒人音楽の中枢にまさに位置する寸前にあったのだということを理解するには、彼の存在はあまりにどっちつかず、中途半端であったからだ。そういう存在を漢字では「鵺(ぬえ)」と書く。だからその間の雰囲気をただしく伝えるならば「鵺」か「ドン」か、という曖昧な地点に彼はいた。つまりまずアメリカ映画界にあっては「黒人でありながら」普通に音楽を担当している人であり、ジャズの側から見るとプレイヤーでなく基本的に「単なるアレンジャー」だということ、さらにこの人は白人ティーン・エイジャーのためのポップス、例えばレスリー・ゴアの『イッツ・マイ・パーティ(涙のバースデイ・パーティー!)』をプロデュースしたりするばかりか、白人市場をメインにする「レコード会社マーキュリーの重役」だったりもするわけで、極端に言えば色黒の白人みたいに見られていたのであった。

以前この連載でもジョニー・マンデルを取り上げたことがあるが、彼が音楽を担当したメロドラマ『いそしぎ』のサウンドトラック盤のプロデューサーは何故かクインシー・ジョーンズである。「何故」と書いてもちゃんと理由はあるのだが、それが「見えない」ところがまさにクインシーのクインシーたる所以であり、言い方を変えれば彼の「鵺」的なあり方を象徴するものだ。問題の『オフ・ザ・ウォール』にしても爆発的に売れたことが話題になっているに過ぎないわけで、これを黒人音楽の音楽的な収穫とする視点は日本にはまだなかった。大ざっぱに言えばこれはディスコ・ミュージックであり、例えばクール・アンド・ザ・ギャング『セレブレート!』と同等の扱いであった。このグループも当時、黒人音楽市場から少しだけ「音楽的転向」をし、JTテイラーの艶のあるヴォーカルで白人方面にすり寄っていると見なされており、両者ともまさに「シャリコマ」の権化と思われていたのだ。現在思えばこのグループもまた、当時、プロデューサー・アレンジャーとしてエウミール・デオダートを迎えるという離れ業を演じていたのだが。

70年代初頭、名曲『ツァラトゥストラはかく語りき』のジャズ版を収録したアルバム『プレリュード』を大ヒットさせて一躍「時の人」となったブラジル人である。クロス・オーヴァーとか(もう少し後には)フュージョンとか呼ばれた音楽が正統的なジャズの領域から離れ、一人歩きを始めたのを象徴する出来事として、クインシーとデオダートのディスコ参入を位置づけられることになる。で、改めて書くと、そういう「ディスコの帝王」としてのクインシーが、現在に直接つながる彼の音楽的基礎を形作るものなのだ。

しかし本来、彼はプロのジャズトランペット・プレイヤーである。ディジー・ガレスピー・オーケストラ、トランペット・セクションの一員としての彼は『バークス・ワークス ザ・ヴァーヴ・ビッグバンド・セッションズ(BIRKS WORKS The Verve Big-Band Sessions)』等で聴けるが、プレイヤーとしての未来にとっとと見切りをつけたのが彼の偉いところ。同僚に天才クリフォード・ブラウンがいたからだというのが定説ではあるが、正確にはそれはガレスピー・バンド以前、ライオネル・ハンプトン楽団時代の話だから疑わしい。もっとも歴史的経緯としては間違いでも大筋でそれは正しいと言えないわけでもない。彼が自身の適性を花形演奏家でなく地味な裏方に見出したのは紛れもない事実だから。興味深いことにアレンジャーに専念するようになってから、ジャズ史に残る名盤『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』を担当したりしている。『ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ(あなたのもとに帰れたらこんなに嬉しいことはないのに)』にフィーチャーされたブラウンのソロが、まさにアレンジャーとしてのクインシーのブラウンへの尊敬の念を表すものだ。つまりその短さが適切なのである。彼は後に、自身の名前を冠したデビュー・アルバム『私の考えるジャズ』において、ブラウンのライオネル・ハンプトン時代のソロ(アドリブ)演奏を譜面に書き起こし、バンドのトランペット・セクションに演奏させているが、こうした音楽的「引用」もまた上記の楽曲ソロの「短さ」同様にアレンジャー・クインシーの趣味の良さなのだ。

つまり彼は「溺れない人」だということ。正しい時間、正しい場所に正しい人を配するのが、彼の仕事というより天性の喜びなのである。こうした彼の特質は、アレンジャーとして最もうまくいくと、逆に彼が何もしていないように聴こえてしまうことになり、結構損している。要するにミルト・ジャクソンの『プレンティ・プレンティ・ソウル』を聴いて、それをクインシーのアレンジしたアルバムとして「まず最初に」思い出す人はどこにもいない。だが、この徹底した裏方志向こそが「アレンジャー」クインシーを後の「ドン」クインシーたらしめたのだ。

彼の転機の一つは1957年のパリ留学だろう。もともとバークリー音楽大学出身で音楽理論に強いのは彼の強みだったが、パリのコンセルヴァトワールでも音楽教育者ナディア・ブーランジェに学んでジャズ以外の音楽を自分のものにしている。もっともここで記しておきたいのは、パリに学んだという履歴ではなく、彼がこの地で新人映画監督からの仕事のオファーを断るという、彼らしくない間違いをしでかしたことなのである。クインシーはそれを、やはりブーランジェの門下生で親しかった若き日のミシェル・ルグランに譲り、それが『ローラ』(60)になった、つまりクインシーの間違った選択のおかげで「ジャック・ドゥミ&ミシェル・ルグラン」という映画史上屈指の名コンビが誕生したのであった。ちなみに現在『ウォッチ・ホワット・ハプンズ』の名前で知られ、ウェス・モンゴメリー『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』の名演奏も残されている楽曲は、『シェルブールの雨傘』(64)から取られたと解説されている場合が多いが、元々『ローラ』に用いられた曲である。ローラに振られた青年が『シェルブールの雨傘』に宝石商ローラン・カサールとして現れ、失恋の想い出を語る(歌う)のに、再びこのメロディを使ったというのが正解だ。スティーヴ・キューン・トリオの『ウォッチ・ホワット・ハプンズ!』やルグラン自身の『ライヴ・アット・ザ・シェリーズ・マンホール』でのピアノ・トリオによる演奏も名高い。つまりクインシーが「正しい」選択をし、ミシェル・ルグランをドゥミに推薦しなかったなら、これらの演奏も存在しなかったはずである。自分のバカさ加減を猛省したクインシーは『ローラ』の大成功を横眼に見ながら、現在では全く忘れられてしまった61年のスウェーデン映画『木の上の少年』に音楽をつけたのであった。彼が映画音楽家として華々しくハリウッド・デビューするのはもう少し先、シドニー・ルメット監督の64年作品『質屋』まで待たなくてはならない。

と言うわけで、本当に『夜の大捜査線』のサントラを聴きながらこれを書いてきたのだが、本題のそちらに行こうかというところで随分な文字数を使ってしまった。いつもは一テーマ一回で連載してきたのだが、今回は二回に分け、問題のこの映画に関しては次回とさせていただきたい。