映画の中のジャズ、ジャズの中の映画    第9回 ラロ・シフリン『暴力脱獄』とウェス・モンゴメリー
まず基本的には平岡正明が死んだこと、それとフリーペーパー版の「映画の國」が終了したこと。私はそこで「映画の中のジャズ、ジャズの中の映画」という連載を持っていたのだが、当然それも8回で終了となった。編集のT山さんにネタはいくつくらいあるんですか、と聞かれて「月イチの掲載で一応二年分位は事前に準備してあるんだけど」と答えたところ、じゃ、WEBで続きをやってみますか、ということになって、ここに至る。そういう次第で初めてこれを読む方および二か月ぶりに読む方、そして紀伊國屋書店の担当者様、それぞれよろしくお願いします。

まず本連載のコンセプトを記しておく。映画もジャズも歴史的文化史的には似通ったところがある。20世紀アメリカを代表する大衆文化で、個人のパフォーマンス(演技、演奏)を複製する(フィルム、レコードに)点だ。しかし当初、意外なくらい両者はスレ違っていた。ジャズはミシシッピー河の河口に興り北上した黒人の芸術で、映画は東欧系ユダヤ人の製作興行者主導により西海岸を拠点に発達を遂げた白人の芸術。ジャズはとりあえず映画を必要としていなかったし、映画もジャズに冷淡だった。だが映画が音を持つようになり、ジャズが多彩な表現スタイルを獲得するようになると、両者は徐々に歩み寄る。ある時期には、アメリカ映画が本来的に有する黒人差別的なスタンスのせいで、アメリカよりもヨーロッパにおいての方がジャズと映画の相性が良かったり、またアメリカ文化への憧れを反映して日本映画がジャズを大いに取り入れたり、という様相を見せたりした。さらに反米帝という立場から日本ジャズと日本映画が活況を呈した時期もある。平岡正明に関してもそうした文脈から記述するべき件は数多い。本連載では、「ジャズと映画」という大ざっぱに言えばアメリカ由来の芸術がアメリカ国内のみならず、時に国籍を離れて人々を楽しませてきた歴史を映画作品と楽曲(またそのアルバム)合わせて紹介したい。で、今回。つい先日マイケル・ジャクソンが亡くなる、という本連載にとっても重要な事件が起きた。色んなことの最後の一つがこれだ。とは言え、マイケル個人はジャズとも映画とも傍流的な関わりしかない。本連載的に重要なのは、マイケルのブレーンであり師匠でもあり、当然最愛の友人でもあるクインシー・ジョーンズの存在、そして二人のコラボレーションの音楽的性格だ。あくまで私的な文脈では、クインシーが主でマイケルが従ということになる。映画『WIZ』で初めて二人がコンビを組んでから今日に至るまで、ということはつまり二人がジャズと映画の領域にコラボレーターとして登場して以降、アメリカの大衆芸術は変貌を遂げた。単純に述べれば黒人がアメリカ文化の尖端になった。映画が尖端の地位を追われた、と言いかえても良い。要するに「マイケル=クインシー音楽」がジャズよりも映画よりも巨大なモノと化した。この件を総括するには、従って「ジャズと映画史」という20世紀前半的なくくりではもはや見通しが利かないのだ。だからひとまず本連載では今はこれ以上を語らないことにする。追悼セレモニーにクインシーは姿を現わさなかったし、偶然だろうが『WIZ』で二人を引き合わせたダイアナ・ロスもセレモニーに出席していない。多分、列席者による追悼音楽と同様にあるいはそれ以上に「非・列席者」による音楽史的な考察が成されるべきなのであろう。

なので今回はクインシーではなく、彼の後輩に当たるラロ・シフリンについて語ることにしたい。どういう関係の後輩かと言うとディジー・ガレスピー・オーケストラのアレンジャー(音楽監督)として、である。ガレスピーがワールド・ツアーで南米を巡業した際にシフリンはクインシーと出会う。結局、シフリンはガレスピーにスカウトされた形でアメリカに渡って来て、やがてクインシーの音楽的なライバルになるという経緯がある。ジャズ関連のみならずフュージョン・ミュージック、そしてもちろん映画音楽家として両者の歩みは相同しているのだ。もっとも、ある時点でクインシーは映画音楽から完全撤退してしまうが、シフリンは何故か今でも現役だという違いはある。実際どうして『ラッシュアワー3』の音楽をラロ・シフリンがやらねばならないのか、と我々は途方に暮れてしまうしかない…。別にこれは彼を非難しているわけではなくて感嘆しているのである。現代の物語なのに、全編70年代から80年代前半のディスコ・ミュージックを流してしまうというトンデモ系コンセプトをやってしまうのが「凄い!」と言いたいのだ。まあ単なる雇われ仕事で、事務的にこなしたに過ぎない可能性もないとは言えないにしても。

前振りが異様に長くなってしまったが、今回は彼がアメリカ映画音楽界で評価を確立した一本として1967年、スチュアート・ローゼンバーグ監督『暴力脱獄』のサントラ盤を紹介したいと思う。ちなみにこの年、ライバルのクインシーはリチャード・ブルックス監督『冷血』を担当しており、まさにアメリカ映画の音楽的潮流がはっきりジャズに転換されたことを印象づけている。この『暴力脱獄』は音楽以外にも多くのやり方で語られるべき作品だが、ここでは音楽についてのみ記述するつもりである。本作の舞台がアメリカ南部の刑務所ということもあって、音楽的にはバンジョーやフィドルを使用したカントリー系トラックもあるのだが、その件も省略したい。問題にしたいのはただ一点。最も印象的なテーマ・メロディのことである。「メインタイトル」「クール・ハンド・ルーク(これが原題)のバラード」「エンドタイトル」と(大ざっぱに言えば)三回聴かれるこの旋律の美しさとその演奏者について述べよう。

サントラ盤に付されたシフリン自身の解説によれば、ここでメロディを担当したギタリストはウェス・モンゴメリーであるという。ジャズ・ギタリストの最高峰の一人だが、彼のようなトップ・ミュージシャンがサントラ制作に参加していてもその件に関する情報は通常一切こちらには入ってこない。多くのジャズ・ミュージシャンが当時ハリウッドで毎日スタジオ仕事をこなしていたのは間違いないのだが、映画に彼らの名前がクレジットされることはなかったし、サントラのアルバムにも個人名が記載されることは少なかった。現在のようにエンド・クレジットにメイキャップ師のお茶くみの名前まで載るような世の中でも、使用楽曲に関しては著作権関係者しか記載されていないのだから、当時がどういう状況だったかは推して知るべし。だからわざわざシフリンがギタリストの名前をしっかり証言してくれたのは一大事件だったのだ。

ところがその後、シフリンの公式ブログでパーソネルの確認を取れるようになると、何故か『暴力脱獄』サントラ盤にウェス・モンゴメリーの名前は見つからないのである。四名のギタリスト(ハワード・ロバーツ、トミー・テデスコ、ボブ・ベイン、アルトン・ヘンドリクソン)を確認できるのだがウェスはそこに含まれていない。これが何を意味するかは不明である。シフリンが特別に彼を呼んで演奏させたものの、彼がユニオンに加盟していなかったために記録に残らなかったか、あるいはシフリンの勘違いか。わざわざそんな勘違いをするものか、と思われるであろうが、ウェス・モンゴメリーはサントラ盤制作の翌年、あるいは同じ年のこの直後にこの曲を自分のアルバムに収録しているのである。そこから何か誤解が生じた可能性もないとは言えない。アルバムのタイトルは「ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド」と言う。これは、ここまでテーマとかバラードとか書いてきたこの曲の著作権取得時のタイトルでもある。当時のウェスは「イージー・リスニング・ジャズ」と呼ばれて、ちゃんとしたジャズファンから蔑まれた一連のアルバムが評判を取っており、これもそのシリーズの一枚なのだ。ただしアレンジャーはシフリンではなく、その手の音楽のクインシー、シフリン、クラウス・オガーマン、デヴィッド・マシューズと並ぶ第一人者ドン・セベスキーである。これら錚々(そうそう)たる顔ぶれを見るだけで、その後クロスオーヴァー・ミュージックとかフュージョンと名前を変えて呼ばれるようになる、こうしたアレンジ重視のジャズの流れが見えてくる。

結局、ウェスがアルバムにフィーチャーしたことでこの曲は世に知られるようになり、多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げて現在に至る。特に有名なのは、セベスキーのアレンジに影響されたジョージ・ベンソン版だろう。収録されたアルバムは「メローなロスの週末」で、ギタリストであると同時にジャズをベースにしたヴォーカリストとして世界的なスターに成長していたベンソンならではの軽妙かつワイルドな味が楽しめる仕上がりだ。だがその他にも注目盤はいくつかあって、さしずめその筆頭がアルバム「アライヴ!」に入ったグラント・グリーン版である。ソウルフルなロニー・フォスターのオルガンを基調にした音楽は、リリース当時は正統的なジャズファンから「シャリコマ」(商業主義を軽蔑してこう言う)呼ばわりされたものだが、1990年代以降シャリコマ一本槍時代のブルーノートがやたらと持ち上げられるようになり、これもそうした中で浮上した一枚と言える。もちろん、持ち上げられるか、られないかに関わりなくグリーンは偉大なギタリストだ。ルー・ロウルズ、ゴギ・グラント、オスカー・ピーターソン等に加え、20世紀末にはサン・ラまでがこれを演奏したらしい。この辺の情報はウェブによる。

最後に最近の注目盤として(ウェブには記載されていない)女流ギタリスト、ドッチー・ラインハルトの「さまよう瞳」を挙げておく。ギタリストでラインハルト、ときたらジャンゴ・ラインハルトを当然思い出すわけだが、彼女は彼の親戚だそうだ。親戚、というのはいつも微妙な言い方でそれ以上は私にはわかりません。いずれにしてもロマ(かつてジプシーと呼ばれた民族を現在ではこう呼ぶ)起源のジャズ音楽家の新鋭なのは疑いを容れない。初めて「ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド」が1967年10月26日ハリウッドで録音されてから40年近くが経過していた。この時の演奏家がウェスだったかどうかはそういう次第で不明だが、ロマ・ジャズに蘇った「ダウン・ヒア・オン・ザ・グラウンド」を21世紀に聴く楽しみは格別だ。