第25回 アンディ・エンゲル追悼、オスカー・フィッシンガー没後40年






英国の配給会社アーティフィシャル・アイの創設者アンディ・エンゲルが2006年12月26日にドイツのリューベックで亡くなった。享年64。コリン・マッケイブのプロデュースによる監督作『メランコリア』(未。1989)のほか、友人だったストローブ=ユイレ監督『階級関係』(公開題『アメリカ』。1984)における忘れがたい陰湿な門衛長の役で記憶される。

『メランコリア』の主演はオランダ出身の俳優・映画作家ユルーン・クラッベ(Jeroen Krabbe)。2005年の第12回大阪ヨーロッパ映画祭の名誉委員長を務めた。ポール・ヴァーホーベン監督の『女王陛下の戦士』(1979)、『4番目の男』(1983)の後、1982年に渡米、『ノー・マーシィ/非情の愛』(1986)、『007/リビング・デイライツ』(1997)、アンドルー・デイヴィス監督の『逃亡者』(1993)などで知られる。「第18回」で紹介した『失踪』(1993)の原作者ティム・クラッベは実兄。『女王陛下の戦士 オリジナル全長版』DVDはエスピーオーから1月26日発売。従来版(116分)より約30分長い。PAL原版で148分。ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントの『ノー・マーシィ/非情の愛』のDVDは廉価盤で2月16日から期間限定販売。

『メランコリア』にはスザンナ・ヨークも出ている。彼女の出演作のDVDのうち、『トム・ジョーンズの華麗な冒険』(1963)、『イメージズ』(DVD題。1972)は紀伊國屋書店から出ている。このほか、『ひとりぼっちの青春』(1969)のDVDは角川エンタテインメントから、『ザ・シャウト/さまよえる幻響』(DVD題。1978)のDVDはエプコットから出ている。共にレンタルあり。

『メランコリア』の音楽はデレク・ジャーマン監督作ほかで知られるサイモン・フィッシャー・ターナー(1954‐ )。70年代を通じてTV(BBC)の人気子役だった彼は、映画俳優としては、ロバート・ミッチャム主演の『大いなる眠り』(ビデオ題。1978)に小さな役で出ているほか、フラ・フィリッポ役で『カラヴァッジオ』(1986)に出ている。『ストロベリーショートケイクス』(2006)の矢崎仁司監督の『花を摘む少女と虫を殺す少女』(2000)にも出演。『メランコリア』のロケ地はロンドン、ハンブルク、フィレンツェ。PAL版のビデオがアーティフィシャル・アイから出ている。ユルーン・クラッベが扮するのは、ロンドン在住のドイツ人の美術批評家。昔の学生の知人から政治活動家の拷問者として知られるチリ人医師暗殺を依頼される。

製作者のコリン・マッケイブは、『カラヴァッジオ』(1986)の製作総指揮者で、テレンス・デイヴィス監督の『遠い声、静かな暮し』(1988)の製作者でもあるが、そのほか、リュミエールの映画100年を記念した国際共同企画、大島渚監督の『映画100年 日本編100 Years of Japanese Cinema』(1994)、マーティン・スコセッシ監督の『映画100年 アメリカ編 A Personal Journey with Martin Scorsese Through American Movies』(日本でもTV放映された)、またニューヨーク近代美術館の委嘱作品であるジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィル監督の『古い場所』(未。1998)の製作総指揮者でもある。本職は教職者で、ピッツバーグ大学で英語、映画学教授、ロンドン大学バークベック・カレッジで英語・人文学教授。邦訳のある著書に『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』(筑摩書房、1991)があり、また堀潤之の訳により『ゴダール伝』(仮題。原著2003年刊)が刊行予定。1995年に創設された人文学と文化研究の教育機関ロンドン・コンソーシアムの委員長。

『カラヴァッジオ』のDVDは、英BFIから1月29日発売(レヴュー)。18頁のブックレットにはコリン・マッケイブの解説も収録。撮影監督ガブリエル・ベリスタインの音声解説ほか、カラヴァッジョを演じたナイジェル・テリー、これが映画デビュー作のティルダ・スウィントン、美術監督クリストファー・ホッブス、デレク・ジャーマンのインタヴュー映像付き。

『カラヴァッジオ』のDVDは2004年1月22日にイタリアのチェッキ・ゴリ・ホーム・ヴィデオから出ていた。日本でも2001年2月26日および2005年1月24日にアップリンクからDVDが出ていたが廃盤。

  1942年11月11日、アンディ・エンゲルはフォルクスヴァーゲンのデザイナーだったドイツ人の父と、ヴラジヴォストーク出身の白系ロシア人の母のあいだにベルリンで生まれた。本名はヴォルフ・アンドレ・オレグ・エンゲル。フォルクスヴァーゲン社の本拠ヴォルフスブルクのRatsgymnasium で映画鑑賞会を作り、ベルリンの大学に進学したが、政治学の学位は取れなかった。映画館アルセナルの案内係となり、映画誌『キノ』を創刊。さらに『シュピーゲル』誌の映画批評家となる。1967年、ジャック・ルドゥーの主宰するベルギーのクノッケ国際実験映画祭でパメラ・バルフライと出会う。パム(パメラの愛称)はロンドン映画祭のリチャード・ラウドの下で働いていた。1968年にロンドンに移住。1969年にパムと結婚。彼らは1977年に離婚するが仕事上の協力関係は続いた。

1969年、エンゲルは友人のダニネル・ユイレとジャン=マリ・ストローブに要請され、彼らの『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』(公開題『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』。1968)の配給を行うため、ポリトキノ(Politkino)を設立した。『バッハ』の元の配給会社が、ストローブ=ユイレこだわりの英語字幕をやり直そうとしたためである。1973年、ポリトキノはジ・アザー・シネマと合併。ジ・アザー・シネマは1970年にロンドンで設立された非営利的な配給会社で、当初の運営評議会のメンバーには、アルバート・フィニー、ハロルド・ピンター、『ブリティッシュ・サウンズ』(1970)の製作者アーヴィング・タイテルバウム、ヴェルナー・ヘルツォークがいる。1971年にジッロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの戦い』(1965)の上映で成功したものの、劇場オーナーの意向で上映施設を失い、配給に専念。『愉快な学知』(未。1969)以後、70年代の非商業的ゴダール作品およびジガ・ヴェルトフ集団名義の『プラウダ』(1970)、『東風』(1970)を英国で配給した。ポリトキノとの合併後、ジ・アザー・シネマは「第16回」で紹介した『ゴースト・ダンス』(未。1983)などを配給した。

1976年に設立されたアーティフィシャル・アイはテオ・アンゲロプロス監督の『旅芸人の記録』(1975)に続き、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺のオペラ』(1969)を配給。日本におけるフランス映画社と似ていることがわかる。アーティフィシャル・アイはBBSとチャンネル4への放映権セールスに依存していたが、双方の局が外国語の映画放映から撤退したため、外国語のアートハウス系の映画は主にビデオ、DVDを通じて紹介されるようになった。1996年、エンゲルはフランス政府より、芸術文化勲章シュヴァリエを受勲。2005年にアーティフィシャル・アイはアクト・エンターテインメント・グループとナッチブル・コミュニケーションズ・グループに売却された。代表はパム・バルフライ。

ロベール・ブレッソン監督の『抵抗(レジスタンス)―死刑囚の手記より』(1956)主演のフランソワ・ルテリエとアンディ・エンゲルの回想記事
1987年から1996年までロンドン映画祭ディレクターを務めたシーラ・ホワイテイカーによるアンディ・エンゲルの追悼記事
コリン・マッケイブによるアンディ・エンゲルの追悼記事
アンディ・エンゲルによるストローブ=ユイレ論

参考までにアーティフィシャル・アイ配給作で、紀伊國屋書店からDVDが発売されているものを挙げておく(廃盤含む)。

『裁かるるジャンヌ』(1928。監督カール・テオドア・ドライヤー)
『ママと娼婦』(1973。監督ジャン・ウスタシュ)
『女の都』(1980。監督フェデリコ・フェリーニ)
『アン・ラシャシャン』(1983。監督ストローブ=ユイレ)
『ラルジャン』(1983。監督ロベール・ブレッソン)
『階級関係』(1984。監督ストローブ=ユイレ)
『満月の夜』(1984。監督エリック・ロメール)
『サクリファイス』(1986。監督アンドレイ・タルコフスキー)
『レネットとミラベルの四つの冒険』(1987。監督エリック・ロメール)
『グッドモーニング・バビロン』(1987。監督タヴィアーニ兄弟)
『友だちの恋人』(1987。監督エリック・ロメール)
『アブラハム渓谷』(1993。監督マノエル・ド・オリヴェイラ)
『パリのランデブー』(1995。監督エリック・ロメール)
『夏物語』(1996。監督エリック・ロメール)
『恋の秋』(1998。監督エリック・ロメール)
『倦怠』(1998。監督セドリック・カーン)
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000。監督タル・ベーラ)
『恋ごころ』(2001。監督ジャック・リヴェット)

なおアーティフィシャル・アイはテオ・アンゲロプロス監督の全作をDVD発売する予定である。

抽象映画の先駆者オスカー・フィッシンガーは1967年1月31日にロサンゼルスで亡くなった。今年は40回忌に当たる。彼は50本以上の短編映画を作り、900点以上の絵画を描いた。『モーション・ペインティング No. 1』(1947)は米国のナショナル・フィルム・レジストリー登録作。フィッシンガー作品は日本では1986年にパイオニアがLD「映像の先駆者シリーズ」『オスカー・フィッシンガーの世界』に『スタディNo.7』(1931)、『サークル』(1933)、『ムラッティのダンス』(1935)、『ムラッティの行進』(1934)、『マンツTV』(1952)、『スタディNo.6』(1930)、『アレグレット』(1936)他全14本が収録されているが、今では入手難。

1900年6月22日、ゲルンハウゼンに生まれたヴィルヘルム・オスカー・フィッシンガーは、一家がフランクフルトに移住した後、1920年、文芸サークルで演劇・映画批評家ベルンハルト・ディーボルト(1886‐1945)と出会う。フリッツ・ラング監督の『ニーベルンゲン 第1部 ジークフリート』(1923)のクリームヒルトの悪夢のアニメーション場面(米国公開版では削除)を演出したヴァルター・ルットマン(1887‐1941)監督の抽象アニメ『光の習作・作品Ⅰ』(1921)は1921年4月27日、ベルリンで上映され大絶賛された。音楽はマックス・ブッティング(1988‐1977)。

1921年、フィッシンガーはディーボルトからルットマンを紹介され、ルットマンに「ワックス・スライシング・マシーン」のアイデアを伝えた。垂直のスライサーの刃とキャメラのシャッターの動きを同期させ、1枚ずつスライスするたびにワックス断面に現れた変化を撮影する。1921年から26年にかけて撮られた『ワックス・エクスペリメント』は非公開。1922年、ミュンヘンに移り撮影所を作ったフィッシンガーはルットマンにワックス・スライシング・マシーン1台とその商業利用権を売却した。だが、ルットマンがロッテ・ライニガー監督の名高い長編影絵アニメ『アクメッド王子の冒険』(1923‐26)の背景効果に同マシーンを用いたことがフィッシンガーを落胆させた。

1927年、経済的危機に瀕したフィッシンガーは借金し、ベルリンに移った。徒歩での旅の途中に撮った写真を用い、後に『ミュンヘン=ベルリン徒歩旅行』(1927)を作った。ベルリンのフリードリヒシュトラッセに撮影所を作った。1928年にはフリッツ・ラング監督の『月世界の女』の特殊効果のために雇われしばらく定収入を得たが、足首骨折のため契約を破棄した。1929年以後、ポピュラーおよびクラシック音楽と同期させた実験作『スタディ』シリーズを開始。初期の『スタディ』シリーズの音楽にはエレクトローラ社の新譜が用いられ、封切館で末尾にレコード広告付きで上映された。1931年、米国のユニヴァーサル映画社が『スタディNo.5』(1930)の米国配給権を買った。『スタディNo.6』のプリントはパウル・ヒンデミットにより音楽院の作曲の課題に用いられた。

30年代にナチスが台頭すると、抽象芸術は「退廃芸術」として弾圧された。フィッシンガーは秘密裡に創作を続け、商品宣伝映画を作った。カラーによるムラッティ煙草のCF(1934)は全ヨーロッパに衝撃を与えた。この頃、従姉妹のエルフリーデ(1910‐99)と結婚。ドイツでは、オトー・ニコライ(1810‐49)の歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』(1849)序曲を用いた『コンポジション・イン・ブルー』(1935)の配給会社は見つからなかったが、ハリウッドのMGM社のエージェントが同作を試写し、エルンスト・ルービッチュにも評価された。パラマウント社の誘いを受け、フィッシンガーは1936年2月にハリウッドに移住した。

『百弗大放送』 (1936。監督ノーマン・タウログ)に使われるはずだった『アレグレット』は、当初のカラー映画という計画がモノクロに変更されたため、最初はモノクロでプリントされた。用いられる楽曲はラルフ・レインジャー(1900‐42)によるジャズ。レインジャー作曲、ドロシー・パーカー作詞の「I Wished on the Moon(月に願いを)」は『百万弗大放送』でビング・クロスビーが歌った。結局フィッシンガーはパラマウントを去り、カラー版(1943)を完成させた。ウォルト・ディズニーの『ファンタジア』(1938‐39)では、J・S・バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」BWV.565のシークエンスのデザイン画を手がけたが、デザインをより具象的なものに改変されたため仕事を離れた。フィッシンガー家には、ホイットニー兄弟、マヤ・デレン、ケネス・アンガー、ジョン・ケイジ、エドガー・ヴァレーズらが集まり、もっぱら東洋哲学が議論された。

ジョン・ケイジ、レン・ライ、ジェイムズ・ホイットニー、ノーマン・マクラレンら諸芸術家によるオスカー・フィッシンガー讃

グッゲンハイム財団の学芸員ヒラ・リベー・フォン・エーレンヴィーセンがスーザの音楽を用いた『アメリカン・マーチ』(1941。モーリッツとバーバラ・フィッシンガーによる修復1984年)の資金援助をした。バッハの「ブランデンブルク協奏曲第3番」BWV.1948を用いた『モーション・ペインティング No.1』(1947)は、ベルギー、ブルッヘで催された第1回国際実験映画祭でグランプリを受賞。1950年、フィッシンガーは「ルミグラフ」(巨大なピアノ大の光のショーを展開する色光オルガン)を考案(特許取得は1955年)。

フィッシンガーによるルミグラフのスケッチ画
フィッシンガー・アーカイヴ
視覚音楽センター(CVM)

フィッシンガーに関する同時代の日本語文献については、佐野明子「1928‐45年におけるアニメーションの言説調査および分析」を参照。

佐野論文ほか「平成16年度 アニメーション文化調査研究活動オ助成制度研究成果発表」(PDF)
涌井隆「オスカー・フィッシンガーと寺田寅彦」(PDF)
ウィリアム・モーリッツ著『光学的詩:オスカー・フィッシンガーの生涯と仕事』(インディアナ大学出版、2004)をも参照。
ウィリアム・モーリッツによるエルフリーデ・フィッシンガー追悼記事
フィッシンガー作品紹介(英語)
『観られていない映画』DVD‐OXの1枚『Viva la dance』には、フィッシンガーの『オプティカル・ポエム』(1938)が収録されている。

2006年5月、視覚音楽センター(CVM)から『オスカー・フィッシンガー:10作品』DVDが出ている。特典映像には、オスカー、エルフリーデ、オスカーの弟ハンス(1909‐1944)のベルリン撮影所におけるホーム・ムーヴィー(1931年頃)など。収録作は『スパイラル』(1926)、『スタディNo.6』(1930)、スタディNo.7』(1930‐31)、『サークル』(1933)、『アレグレット』(1943)、『レイディオ・ダイナミクス』(1942)、『モーション・ペインティングNo.1』(1947)、『ワックス・エクスペリメント』(1921‐26)、『スピリチュアル・コンストラクション』(1927)、『ミュンヘン=ベルリン徒歩旅行』(1927)。

このDVDは2006年ボローニャ修復映画祭の実験映画DVD部門で特別受賞した。審査員は『コントラクト・キラー』(1990)の原案者でもある映画史家ペーター・フォン・バック(Peter von Bagh)(同映画祭芸術ディレクター。1943年ヘルシンキ生まれ)、アラン・ベルガラ(映画批評家。1943年生まれ)、マーク・マッケルハタン(自主映画・ビデオ学芸員)、パオロ・メレゲッティ(映画批評家。1949年ミラノ生まれ)、ジョナサン・ローゼンバウム(映画批評家)。

ジョナサン・ローゼンバウムによる『オスカー・フィッシンガー:10作品』DVDレヴュー